何の為に生きるのか
(2000. 5.27現在 ここへの投稿件数 37件)
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ご投稿6
ご投稿7
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ご投稿8
ご投稿9
_subject=私は何のために生きるのか _
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鬱がひどかったころ、自分が生きていることがとても申し訳 ないことと思っておりました。そして常に死を考えましたが しかし、何をしても無意識のうちに生きようとしてる自分 に絶望したりしてる時に親鸞上人の教えを知りました。 そして、病状がおちつきつつある今、生の意味を考えました。 まず、生に対する執着は動物の本能であること。 次に、考えられるのはいかに死を迎えるかの過程だと思います。私は発病前は、内科の看護婦でした。そこで数多くの死 を見てきましたが、本当に最期のときはそのひとの生き様が 他人の目で見てもよくわかります。また老人の有り様を見ても その人の生きて来た軌跡が若輩ものの私にもはっきりとみえま した。 どうせ死んでしまうという事実は否定できません。しかし多くの最期を看取って思うのは、老後や最期に初めてその人の生の意味が問われると思ってます。
今自分自身の行きてる意味は分かりません。 しかし私は親鸞上人のお言葉を信じながら最期を迎えるつもりです。嫁ぎ先が他宗の今、自力で学ぶほか道はありません。 しかし若いうちから、少しでも多くの教えを自分のものにする、それが今の私の生きている意味だと、思っております。
name=があこ
from=syakunimyoukou@anjel.culb.or.jp _
ご投稿10
subject=何のために生きるのか _
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ご投稿11
ご投稿12
ご投稿13
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ご投稿16
ご投稿17
今日、ラーメン屋に行ったら小学一年生ぐらいの男の子をつれて来ているお父さんが居ました。二人で楽しそうにしているのを見て2、3年前の自分を見た様な気がしました。妻がつわりがきつかった頃、においがだめで食事が家でつくれないので、よく長男を連れて外食したものです。(もうすぐ六つ違いの弟か妹が産まれるんだ。)あのころ毎日が楽しくて、何のために生きているかなんて考えたこともありませんでした。仕事がきつくても、いやなことがあっても、家族と一緒にいると楽しくて、何のためにいきてる?なんて思っても見なかった。
その一年後、死にたいといつも思っている自分がいました。毎日が悲しくてつらくてしょうがなかったから。長男が死んでしまったから。そのころは「でも死ねない。」「孫をなくした母や、義父のためにも死ねない。」残った長女のためにも「生きていなきゃならない。」そう思って生きてきました。 次女が二歳になり、かわいくて、憎たらしくてしょうがない時期になりました。そして次男が誕生し、つかまり立ちするようになった今、「死にたくない。」「もう少し、この子たちが大きくなるまで生きていたい。」 この子たちのために生きていかなきゃならないというより、この子たちの成長を自分が見届けたいから、「生きていたい。」大きくなるのをやめてしまった長男にかわって妹や弟が成長していくのを見たい。それを見たい自分のために生きていきたい。 人間はつらくなると死にたくなって、幸せだと生きていたいと考えるようです。自分の幸せのためならどん欲になれる。こう言うとニヒリスティックな感じもしますが、これが真実なのだと思います。今幸せだからもう長男の死を乗り越えたのかというとそうではありません。でも少しでも「幸せ」がそばにいるうちは生きていたい。他人の役に立たなくたって、自分が幸せなうちは死にたくない。ああ、僕もホントに自分中心なんだとつくづく思います。 でもせっかく母に生んでもらってこの世に出てきたからには、父母にここまで育ててもらったからにはそう簡単に死ぬわけにもいかない。 死にたかった頃、この先笑うことなんかあるんだろうかと思う日々でしたが、このまま死ぬまで泣いていたら、ああ死にたい死にたいと思いながら生き続けていたら「もったいない」、それに「俺たちの親はどう思うだろう、きっと俺たちが哀れだとおもってつらいだろう」、「死んだ息子はどう思うだろう」、「どうせだったら楽しく生きていきたい」と言うようなことを妻と話したことがあります。 人間誰だって苦しむために生まれたなんて思いたくない。どんな小さなことでも「良いこと」を味わいたい。その「良いこと」とが何なのかは人それぞれでしょう。何のために生きるのかと考えたことのある人は、みんなそれぞれの壁にぶつかったからそう考えるのだと思います。でもその壁はいつかは乗り越えることができて、きっと「良いこと」がある。そう信じて生きていく方が楽しいにきまってる。みんなつらいこと、苦しいこと、それぞれに抱えて生きています。何のために生きているのかはそうそう悟れるもんじゃないでしょうが、そんなの死ぬとき、または死んだ後にわかったって良いんじゃないかと思うようになりました。少しでも楽しいこと、良いことが残っている。だったらその為に生きていても良いと思います。 結論、僕は楽しく生きて、楽しく人生の終わりを味わうために生きている。いろいろな小さな「良いこと」を楽しむために生きている。それだけです。軽いですかね? |
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_subject=何のために生きるのか
_to=uryuu@fki.fitweb.or.jp
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人生の目的は何か? について、Aさん(禅)Bさん(浄土教)の問答(抄)
曹洞宗のHPよりご紹介します。
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_subject=なぜ生きなければいけないのか
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_subject=何のために生きているのか?
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subject=生きるということは
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私は、私の知的好奇心を満足させるために生きています、今のところ。
私にとって、「死ぬ事」は誘惑です。生きているうちには決して知る事の出来ない自己の「死」とその後について。
それを解るためには、死んでみるのが一番手っ取り早い。そして、それによって私の知的好奇心を完全に満足させら
れると考えています。
実のところ、人間は何か目的があって生きているのでは無い、と、私は考えています。 最初から目的をもって生まれてくる人はいないからです。 生きている、それ自体には苦も楽も虚も実も無く、唯、私が在るだけです。 その私が作り出す欲望や感情が、私を苦しめるのだとしたら、それらを殺してしまえばいいだけのこと。そんなに簡 単には出来ませんが。また、目的が欲しいのなら、それらとうまく付き合う方法を模索するだけでも、十分な生きる 目的になるのではないでしょうか。 私の尊敬する人は、「善く在るために生きる」と仰いました。 私は「善く在る」とは如何なる事か考えながら生きている状態ですが、とりあえず、それが解るまでは死なない方が いいかな、と思っています。 |
subject=何のために生きているのか?
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subject=何のために生きているのか?
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subject=何のために生きるのか?
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subject=生きる
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subject=思うこと
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subject=田中さんの「思うこと」を拝読して
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最後の行に引っかかってしまいました。「自然と同じまさに浩然の気」...なる
ほどその域に 到達できればすべては小さいことにおもえてしまうのかなあ。
「浩然の気」というのは幸せなんかいらないって言うのではなく、幸せも不幸も一 切取り混ぜて すべて受け入れ、自然とともにありのままに生きるという意味だと僕は解釈しまし た。 ひっかかるのは「幸せのようなものに執着してもつまらない」ってくだりなのです。 どういうことなんでしょうか。おそらく何か自分が求める「幸せ」、たとえばお金 だったり、仕事の 成功だったり、家族の健康だったり、出世することだったり、なんていう一つの事に 執着してしま うといろんなものが見えなくなってしまうんだよと言うことをおっしゃりたいのかな と勝手に解読して しまっています。幸せは向こうからやってくるから素直に受け入れて、そのとき味わ えば良いんだよ って事ですよね。 でもこの最後の一行、物議をかもす(嵐を呼ぶか?)ような気がしますねえ。 いかようにもつっこめますものね。 たとえば *田中さんが「浩然の気」とおっしゃってるのも「幸せ」または「喜び」の一種だ し、幸せなんて人それぞれだ。 ストイックに修行する禅僧なんかが、何かを掴んだとしたら、それはある種の喜 び、幸せなんだろうし...。 *何にも幸せと思うことがなくても人は生きていけるのでしょうか。 *幸せに執着してもつまらないというのは、幸せを受け入れないことなのか?と取れ てしまう。 てな具合ですね。僕も2回めまではこう思ってました。 3回目に読んで、あれ少し意 味を取り違えて たのかなっと思ったぐらいです。「なんのために生きる?」と言う問に対して、 問うことなくありのままに生きなさいとおっしゃってるのだと気づいたのは4回目で す。 「旅こそ人生」というのはきっとそういうことなんでしょうね。なんのために旅して るんだ と言う問を自分に投げかけることは、旅してる途中にはしないし。旅を始める前に 何か考えて旅に出るんですよね。旅してるときは途中出会うもの出会う人と無心に接 しているんですものね。 あ、でももう一つ疑問が...人が生きていく上で、繰り返し日々行わないといけな いルーティンが必ず ありますよね。仕事であったり、家事であったり。 誰しもそのルーティンワークの中 にさえ何か達成感を 感じるからこそやっていけるって事ありませんか? たとえばお金が欲しいから仕事を しているって言うのは 事実ですが、多くの人はお金儲けが仕事の理由の100%をしめていないと思うので す。報酬としての お金を得た時でも、お金を使うことやためることができるからうれしいっていうのは せいぜい半分。 あの仕事がこれだけの金銭になったんだって思う達成感や充足感があとの半分以上を 締めるのではないで しょうか。 その達成感という幸せにある程度執着しないと仕事なんかやってられない し。 そうすると田中さんの境地に達してしまうと、もう仙人になるかしないと食っていけ ないなあ。困った... |
subject=ありのままに生きる
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subject=色即是空
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subject=何の為に生きるのか
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はじめまして。りゅうじんと申します。
僕もホームページを開いていて (人間って何だ? http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/)、 風来坊さんの「心の扉」にリンクしてもらっているのですが、 そこを通じて来ました。 僕は唯物論者時代にさんざん悩み、 スピリチュアリズムというものに出会って 人間の生まれてきた理由、また、霊界の存在を確信した者です。 投稿されている方の悩みに少しでも参考になればと メールいたしました。 何のために生きるのか。 それは自分の心、自分自身を成長させるためだと思います。 行為としては利他的に人に奉仕することが大切になりますが、 人に愛を与えることが同時に自分の心の成長につながります。 人間は霊的存在であり、この世で死ねば本来の住処である霊界に帰ります。 その時、肉体を含めた全ての物質、 この世では大事だと思っていた金、地位、名誉などは 置いて行かなくてはなりません。 霊界に持っていけるのは自分の心だけ。 その心のレベルによって霊界での住処も変わってきます。 この世は自分の心を成長させるための学校のようなものです。 この世での経験は全て自分の心の成長に影響します。 苦しい経験も自分の心を成長させるために必要なものと受け止め、 投げやりにならず、焦らず、前向きに対処して行くことが大切です。 人間には耐えられない苦労は与えられません。 苦しみの後には必ず喜びが待っています。 |
ご投稿34のりゅうじんさんは「人間の生まれてきた理由、また、霊界の存在を確信した者です。」と仰有います。それに対して、拙HPは「”わたしの思い””わたしの確信”はあてにはならない」ということを訴えており、さてこのご投稿を掲載させていただこうかどうか・・実をいうとほんの一瞬「困った」のです(^^ゞ
だけど、「困った」のは「霊界の存在を確信」してほしくないという私の我執なんですね。
ということで、「人間は自分の知っていることが全てだなんて過信しては いけない。」と仰有って下さるりゅうじんさんに、なんのかんの言ってもどこまでも他を排し自分を主張したいgoshinを教えていただきました。
subject=もう、わかんないよ、、、 _
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今、高校に入ったばかりの1年生です。そのことで、悩んでるんです。高校に、入ったのは、特に意味はありません。ただなんとなくなんです しかし、今、自分がなんとなく勉強してて生きてるここちがしないってゆうか、生きてる 意味がわかりません。別に、いいこともな〜んにもなく、「なんで、生きてるんだろう、、、」っておもうことがよくあるんです。
やっぱり、こんなこと 思う自分っておかしいのかなぁ? |
subject=何のために生きるのか? _
message=
_私も、1年ほど前からこの問いを忘れられず、現在 カウンセリングを受けながら自分の生き方を模索している者です。
ですので、皆さんのように何か明確に答えられる思想は未だ固まっていません。
けれども、今の自分なりに感じ始めていることを拙いなりに表現してみたくて、こうして書き込みしています。
V.フランクルという有名な精神科医をご存知でしょうか。彼はユダヤ人のため、ナチの強制収容所に入れられました。そこでは多くの人があまりの苦しみのため「死にたい」と思っていました。もちろんフランクルも一旦は失意に落ち込むのですが、自分が精神科医であることを思い出し、収容所内での自分の役目は「苦しんでいる人々にカウンセリングを施すこと」だと思い至り、収容所内で隠れながらいろいろな人のカウンセリングを行いました。 大戦終結後、彼は無事生還します。そしてその時の経験から独自のカウンセリング理論を生み出します。「ロゴテラピー」です。 フランクルは、私たちが人生に何を期待するかではなく、人生が私たちに何を期待しているのか、その生を生きるべきであるといいます。つまりフランクルの例でいうならば、収容所では自分も死にたいくらい苦しかったけれども、精神科医であるフランクルの生は自分も自殺する事よりも自殺したがっている人々にカウンセリングを行うという生き方をフランクルに課したと考えるのです。そしてそれを成し遂げることによってフランクル自身も収容所内での自分の「生」「存在」に意味を見出す事が出来、苦境を生き延びることが出来た訳です。 私は今は、平凡な会社員です。毎日の生活は、寂しく張り合いなく、砂を噛むような生活と言っていいかも知れません。先にも書いたとおり、カウンセリングに通いながら何のために生きているのか模索している真っ最中です。 今日、フランクルの言っている事をふと思い出し、自分の生活に当てはめて考えてみました。フランクルは「人生があなたに期待する生を生きよ」と言っている。今 私は毎日 会社へ行っている。私の人生が私に期待しているものは、今の会社での今の仕事に より意欲と目的・意味を持たせてその仕事を全うすることではないか・・・? 恐らく、フランクルによればそのようになると思います。その通りに私が思い定める事ができれば、私は楽になれるのでしょう。 けれども、私の「実感」はそれを裏切るのです。会社内で責任あるポストにつけてもらってもその仕事に喜びや張り合いを感じられず、別の部署に転属になってもやはり自分の生活に「意味」を持たせることが出来ないのです。やりたい仕事は他にあります。それは「会社員」という単なる「所属」を表わす名前ではなく、もっと為すべき事が明確な「職業」です。その仕事に就くことができれば、自分は自分の生に意味付けが出来るのかな・・・とも思いますが、今現在の仕事すら満足に生き切っていない私ではどんな仕事に就いても同じように意味のないところをぐるぐる悩んでいるだけなんじゃないか・・・とも思ったりします。 まとまりない話ですみません。読んで頂いた方にも何の示唆にもならない話になってしまいました。 でも、このようなことを話せる場があった事をこころから嬉しく思います。このような場を提供してくださってありがとうございます。 |
subject= _you
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iitai hitokotoiitai kireigotojyanannokaikethunimonaranaishikokoronantenaimodozendayonannimothutawattekonaimonomegahoshinowa
hontonihoshinowa
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(今月の言葉1998年11月)良い地に落ちた種 −聖書に生かされた石川正一君の詩−
(仏教Q&A98.10.15)
米沢英雄先生は「本当の自分に出会うため」と答えて下さいました。
應瑞寺ご住職は「自分を生かす」ということをお教え下さいました。
このような心に残るお言葉にも出会いました。