最後には死んでしまうのに、どうして一生懸命
生きなければならないのですか?
何の為に生まれ、何の為に生きているのでしょうか?
「何の為に生きているのか」「人生の生き甲斐とは」
あるいは「何の為に生まれてきたのか」など
いろいろな方がそれぞれの言葉で問いかけられます。
これを読んで下さっているあなたもフッとそんなことを
考えられたことがおありでしょう・・・答えは見つかりましたか?
日々の生活に追われてそんなことを考えてる暇はないと仰有るかたも
おられるでしょうが、そんなことを言わずに暫くお付き合い下さいね。
「生活」する「生」の字を書いて「生きる」、
「活」の字を書いても、同じように「活きる」と読みます。
違いがわかりますか?
「活きる」と「生きる」
ご一緒に考えてみませんか?
あなたが問うているのはどちらの問題なのでしょうか
安田理深師は次のようにお示し下さいます。
私たちがいつも問題にしているのは「活きる」ことではないか、
しかし、その「活きる」ことへの問いの陰には、常に「生きる」ことが問われている。
にもかかわらず、
「生きる」ことが見えずに、「活きる」ことに掛かり果てているのが私たち人間である。
「生」は感性に与えられた問題
「活」は理性に与えられた問題
(原文はここです→ 安田理深「言にたまわる信」より抜粋)
回答いろいろ
浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」回答
米沢英雄先生 門木寿昭師(應瑞寺ご住職)
皆さんのご意見(ご投稿をお願いします)
ゴシンのQ&A [A4]
「”活きる”と”生きる”、そんなややこしいこと考えてたくもないよ〜
何の為に生きているかなんて、誰にもわからないんじゃないの?
分からないので、ご託を並べて誤魔化そうとしてるんじゃないの(^o^?」
- そうじゃないよ〜、「何の為に生きているのか」という答えが出ないという人に
- 「答えが出ないのは問いが曖昧だからでは」と訴えたいのよ。
- 問いが曖昧ということは生きている肝心な「自分」が見えないからじゃないかって・・
- だから、
- ”人生は自分を見つける旅。このページは自分探しのページ。
- 問いの答えを見つけるのでなく自分の問いの中に自分を見つける
”って言いたいだけなんだけど。
-
「フムフム、そうか、そうくるか、もう赤字を出して
”人生は自分を見つける旅”ってことは”自分を見つけるために生まれ、
自分に出会うために生きている”ってことでしょ。
そういえばこのHPのどっかに”何の為に生まれて来たの それを見つける為の人生”って
書いてあったよね。
ダケド。。そんなことじゃ、ぜ〜〜んぜん、わかんない。誤魔化されてるって感じ」
- だから、「活きる」と「生きる」について考えてみようって言ってるのに、あなたが
- 「そんなややこしいことをいって誤魔化す」とかなんとか、言うんでしょッ!
-
- 「最後には死んでしまうのに」って言葉に私はひっかかってしまうわけ。
- それで、安田先生の「活きる」と「生きる」を思い出したわけだけど。。
「だって最後には死んでしまうと思うと
何の為に一生懸命働いてるんだろって思うのも無理ないと思うよ」
- 1カ月後のお給料日まで生きているって保証はないんだものね。
- 「最後には死んでしまうのに」といいながら明日で尽きるかも知れない命とは思ってないんじゃないの?
-
「そりゃそうよ、明日死ぬなんて考えていたら、何にも出来ないじゃないの」
- だから、そういうのが「何の為に活きるか?」「活きる」問題じゃないのかなって思うんだけど。
- 「活きる」問題の中には「死」はない。そうでしょ?
- 「活の問題」は、死んだら終わりを告げる問題ということよね。
-
「死んだら終わりを告げるのが”活の問題か」
病気にしても、貧乏にしても”活の問題”は死んだら終わりだよね。」
- 活の問題は死なないようにいきること、
- 活きるために働くけど最後には「死」という限界があるのよね、
- だから「何の為に活きるか」なんて考えても「死」によって簡単にひっくりかえされてしまう。
- それが「活きる」なんだよね。
「私は何の為にいきるかというと楽しむためって思っていたけど
その場合、私の”何の為にいきるか”のは”いきる”は”活きる”だよね。
楽しむために活きる。。。ああこれだと死んだらお終いだよね。
そうか、だから、わたし、楽しそうにしていてもどこかアンニュイな雰囲気が漂うわけだ」
- あなたの横顔にアンニュイな雰囲気なんて感じたことないけど、いくらお祭り娘のあなたでも
- 「人生を楽しむために生きている」っと言い切れない何かがあるというのは
- 楽しむための人生は「活きる」問題であって「生きる」問題が見えてないということじゃないのかと思うのよね
- 私たちが「何の為に活きるのか」と問うとき、本当は「何の為に生きているか」が問われてるんじゃないかな
-
「そうかわたしのこの哀愁帯びた横顔ってのは、この”活きる”と一緒に
いつも”生きる”問題が問われてからなんだ」
- だから「最後には死んでしまうのに、どうして一生懸命生きなければならないのか?」
- って聞く人は「活の問題」しかみえてないんじゃないかな〜って思うわけ。
- 本当はその人は「活の問題」ではなく「生の問題」に悩んでいるのにそれに気付いてないんじゃないかと。。
- ”活きる”と一緒にいつも”生きる”問題が問われてるのにそれが見えてない
-
- 私たちが人生に不安を感じるのはいつも「生きる」問題が問われているからなんだよ。
- つまり「いかに活きるか」を考えても、それを全面的に否定する「死」でもって
- 途切れてしまうから不安なわけでしょ?
- だから「死」ということ、「生死」ということが解決されない限り不安はなくならないんだよ。
-
「ふ〜ぅん。。。うん、楽しむ人生だったら、明日死んだらお終いっていう不安がある
そうすると”生きる”問題っていうのは”生死”の問題ってことだよね。
これがわかんないんだよね。”死”なんて考えたらノイローゼになってしまいそう」
- 「死」を怖れて、死ぬことを考えないようにしてるから不安なんだよ。
- 「死」が分からないかぎり「生」も分からない。
- 生きる意味は「死」の問題を抜きには考えられないと思うよ。
-
「それが”活きる”に対して”生きる問題”なんだぁ〜」
- そう「何の為に死んでいくのか」
- 「いかによく生きるか」でなくて「いかによく死ぬか」「安んじて死んでいけるか」
「そんなこと言われたって、そんなことわかりっこないじゃない。頭パンクしそう
わたし、そんなややこしいこと考えないで、のんびり楽しく活きていったほうがいい」
- ま、それでいいと思うよ。でも、そうも行かなくなるときあるのが人生だから
- ちょっと、我慢して付き合ってよ。分からなくてもいいから。。
- 「活きる」は知性に与えられた問題であるに対して「生きる」は感性に与えられた問題。。
- と安田先生は仰有ってるけど、分かる?
-
「わからない。分からなくていいって言ったくせに!
あとで「安田理深「言にたまわる信」より抜粋」読んでみるけど
知性に対して感性に与えられた問題?」
- 「活きる」は知性に与えられた問題、どうしようこうしようと頭で考える問題
- それに対して、頭で考えても分からない「感性に与えられた問題」というものを私たちはもってるんだよ。
- それが「生死」の問題、
- どうして人間に生まれたのか、どうしてあの親の子に生まれたのか、
- いつ、どのように死んでいくのか、死んで何処へ行くのか、
- 頭で考えても分からない。
-
- けど、その問題を解決しない限り、いくら頭で考えても「何のために生きているのか」の答えは
- 出ないと思う。
「頭で考えないで、どうすればいいの?感性に与えてもらったって・・わかんないよ」
- そんなことないよ、感性に与えられているから、誰にでも平等に分かるんだよ。
- 知性だと、あなたのように漏れてくる人が出てくる。
「冗談言ってる場合じゃないよ、どうすれば、生死の問題を解決出来るわけ?
頭で考えなくて、どうすればいいの?」
- それを教えてくれるのが仏教。真宗では「業」なのよね。
- 頭で考えて考えて考えて知性の限界までいけば大切なものは自然に表れてくる・・
-
「そんなこというから宗教は嫌いなんだよ。要するに、何の為に生きているわけ?」
頭で考えなくて、どうすればいいの?」
- 頭で考えて考えて知性の限界を知ると、自分の考えの底が見えて来るんだよ
- 自分が自分が自分がって言ってばかりの自分が、自分の考えを握って、
- それを立場にしてフラフラと立ってることが見えてくる。
-
「ああ、やっぱり今回も赤字で誤魔化すんだ〜。。」
- そう、ご名答。
- ”人生は自分を見つける旅。このページは自分探しのページ。
- 問いの答えを見つけるのでなく自分の問いの中に自分を見つける
”
- これしかない。
-
- でも”何の為に活きるのか”には”何のために生きるのか”が隠れていることを知って欲しかった。
- 自分の知性を立場にしている限り不安はつきものだということ。
- 本当に立つべき場所に立たぬかぎり答えは見つからないということ。
「ああ〜ぁ、絶対誤魔化されてる。。立つべき場所がこたえられてな〜〜いぃ(T-T)」
- だから、上の「回答いろいろ」をどんどん増やしていきますので是非是非ご覧下さいね。
- それから皆さんが「何の為に生きているか」もお教え下さい(^o^)/
「みんなの広場」でも何の為に生きるのかを語り合っています。