安田理深師「言にたまわる信」(文明堂)p.124〜より


     

知性の根源は感性にある。

 感性は人間の心の下底部に、知性は人間の心の上層部に位している。

生きる又死ねるという事は感性に属する。

死ぬ事を考えているのは現に生きてる証拠である。

理性の世界には死といぅものがない。然し死ぬという事は生れたからである。昔の人は生という事を一大事というて人生観を見出さんとしていたが、これは理屈上の事でない。

一大事という事は人生観を見出した人の上にのみある。理論としてあるのでない。


人は人生問題に行き詰り人生の意義を見失うて自ら死を択ぶに到るのであり、年老いて活に行き詰り理知で割 り切れぬから自殺するに到るのである。

然し人生一切が無駄であると絶望するなら、死ぬ事も亦人生上の出来事である以上は無駄である。

人は死ぬ事の意義を求むる為めには自殺するにも手間がかかるのである。さりとて活きてる事も亦面倒な事である。

活という事は死なぬ様に生きる事である。職業生活はすべて活きる為である。活きる為めに働くのであるが働いても終に死ぬる。こゝに限界がある。


此の場合は二重になってる。こゝでは活という問題が正しくハッキリしておらぬが、それよりも生の問題が一層ハッキリしてい ない。若し生きる事がハッキりすれば、死ぬ事もハッキリするに到るのである。

活という問題は死ねば終りを告げるが、生の問題ではそれが解決するまで安じて死ねない。

然し我々は単純に生という問題を忘れているように思うが此の問題は絶えず我々の心の底に隠れておる。知性の上では忘れたようでも感性の上では忘れられない。

かく人間は此の二重の問題で常に悩んでいるのである。


人は個人的にその貧乏を悩んでいるが、貧乏だけ悩んでる人は一人もない、貧乏(活)と共に生を悩んでいるのである。つまり自己の存在を悩んで居るのである。

生の問題はいつも露出してない。いつでもあるが我々の心に直接出ていない。活にはいつでも生死といぅ問題が出ている。人は貪乏ということだけで悩まない。貧乏以外の事で悩んでいる。即ち貧乏する自己そのものを悩んでいるので二重に若しんで居るのである。


 然し生の問題を一度解決すれば貧に所しても所帯やつれしない。物が欠乏すれば安じて死ぬる事があってもよいわけである。此問題が解決せねば生も活もはっきりしない。


人は常に生きるだけ生きる事で人生の問題が尽くされてると思うているのである。貧乏ということも懸命な合理的努力で之を救いうる人もあるが、これは個人的の話である。これが民族国家又国際経済にも大に影響さるるものである。

貧乏というものには善意も悪意ない。人を苦しむ意志はないが人間が貪を悩むのは我々の生存を悩むからである。苦しむのは物が無いという訳だけでない。


之を一括して活の問題には明かに恐慌を感ずるが、生の問題は表面に出ないで、如何なる問題の底にも隠れていて、我々は何か知らん常に不安な気分が消え失せず気にかゝるものがあるのである。

そこに自分の立場がないという事をしみじみ感ずる。

自分の立場がないと立ってはならぬものに立つ外ないという事になる。

即ちどうにかなるであ ろうと思う気やすめに立つ外ないこととなる。


これは恰も自分の生命を銀行に預けるが如さものであって、いつ銀行が破産するかも知れない、これはこわいことはないが不安である。しかし此の不安は深いものである。銀行が破 産しないという証明はないからである。不安は人を急に襲わぬが深いものである。

かゝる問題をもつ処に深いものがあるわけである。人間が自己の知恵、能力、位置、健康、又若さ等に頼よれば、そのまま不安を感ぜざるを得ない。

人は得意になったまゝ不安である。不安な人は却っで得意になる。


如何に金がなくても安らかな人もある。悲しいなかで悲しまない人もある。 然し愛児の夭折に対し悲しんでも傷まない、心が動揺しない。外見無慈悲の様に見えても心の平衡が破れない。その死に対して愚痴を零さない。悲めども心は暗くない。


「活」の人は面に 笑うても心の底は暗い。

人は得意にならねば得意にならぬだけ、心は暗く叉 不安である。

得意になってる人は生活に勝ったつもりで実は負けているのである。


人は生活の為めに徒らに努力してる。貧乏でやつれる責任はない。活は未来に、生は過去に方向する。

生は業に与えられるもので業に響く。

業は知るものでない。業は感ずるものである。理性に与えられるものでない。


   

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