私が、私自身と思っている私は、自分の思うようにしたいという魂胆、自我を内にかくしもつている私であって、この 私では、私に都合のよいものだけしか見えなくて、都合のわるいものはこれを、無視するか、うち捨ててしまいます。 こうした見方の前には、世界はその全貌をあらわすことがありませんし、 私は世界を見ているようでいて、わがまま な自分勝手な解釈をしているにすぎません。 こうした世界観は当然、いつかは行き詰るはずであります。 私たらは こうして行き詰った場合、自分の解釈が行きづまったとは思わずに、もう自分の生き甲斐は失われたと、勝 手に簡単に、人生に絶望しがちであります。そし て、つい、一番大切な自分に対し自殺を択んだり致します。身勝手 も甚しいも のと申さねばなりますまい。 私が、私自身だと思っている私の、その心の底にに、もう一人の私、真実を感じとることの出来る私がおる筈であり ます。 私の自我が、自分の都合・不都合で〈婆婆〉を虚構するものであれば、虚構している〈婆婆〉に気付いて、真実に触れる私がおる筈であります。 私の心の底にかくれていて、日常、私も気付 かずにいる〈もう一人の私〉は、いつ・いかにして顔を出すのでありましょ うか。 そうです。ナムアミダブツする時にのみ、もう一人の私が顔を出すのであります。 私もまた、私の中にかくれている もう一人の私にナムアミダブツする時に、 はじめて出あうことが出来るのであります。 ナムアミダブツは、外に〈真実の世界〉に触れ、内に〈もう一人の真実の私〉に出あうことのできる、たった一つの道 なのであります。 米沢先生のご紹介は当HPの「今月の言葉 1998年 2月 」をご覧下さいね |
應瑞寺住職ご法話の抜粋「出会い」はHP「心の扉」でごらんになれます。 |