ご投稿して下さった方々 (敬称略、ご投稿NO.をクリックしていただくとそれぞれの方のご投稿へリンクします)
ご投稿NO. | name | subject |
178 | 二十歳の大学生 | 人生に喜びを見つけることは必要ですか。 |
179 | 莫・申そう | 人生を生きるってことは(件名なしのため仮題) |
180 | Hiro | 何のために生きるのか |
181 | 玄生島さんの弟子(自称) | 思うこと |
182 | ちはや | 「何のために生きるのか」について |
183 | taka | 何のために生きるのか |
NEW!184 | ヴァリィ | 死にたいと思いながら生き延びた経験談 |
_subject= 何の為に誰のために生かされてるのか
_message=
人生に喜びを見つけることは必要ですか。その中に他人が入ってくることはありますか。 私は高校時代、学校に対する不満からある行動を起こしました(詳細は長くなってしまうので省略させていただきます)。適当に学校に見切りをつけて適当に過ごせばよかったのかもしれませんが学校がすべてにならざるを得ない状況でしたし、問題を直視しなければ何も良くならないと考えて、行動したのでしょう。 結局、私はこの一件ですべてを見失いました。2年ほど大学に通いながらやっと自分について見つめ直し、今の学校に転校して3年生となった今、卒論の準備として読んでいた本でこのホームページのことを知るに至りました。 最近、高校時代のクラスメイトが大学で様々な活動に力を入れていることを知り、喜ばしく思いながら高校時代を回想しています。高校時代の自分は学校に執着するあまり先生方とも衝突し、結局自分の主張の趣旨をうまく伝えることができませんでした。 それを反省すると同時に、責任が自分だけにあるとしないのはやはり周りにも自分と同じような考えを持っている人がいたこと、さらに学校が学生の実態を踏まえた対応をしようとさえしないということに対する問題意識からです。そしてなにより、すべてを自分の責任にすると自分を全否定するようで生きていけなくなってしまうような気がするからです。 私は自分ひとりで行動し、それも決して行動と呼べるほどではなくgoshinさんの時代の全共闘運動とは規模も内容も貧相でした。しかし、あの頃の私は16歳でショックも大きく、今でも当時を忘れることができません。もしかしたら、忘れるよりも心に留めておいて誰もが人生を喜びを持って生きることができることを願って行動していくことが私の務めかもしれないと思っています(大袈裟ですね)。 お返事でgoshinさんは、「人生に喜びを見出す必要がある」ということにはそれほどこだわっていらっしゃらないように思いましたが、確かにそうです。 にもかかわらず誰もが喜びを持って生きていけることを願わずにはいられません。 高校時代のクラスメイトに比べて自分は未熟だと思い知らされながらも自分を正当化することでしか生きられない。幸いにも今は大変恵まれた生活をしているにもかかわらず昔をあえて記憶に留めようという考えにより自分を自ら苦しめすべてが空しい。 |
name= 二十歳の大学生
_subject= 感謝のため
_message=
何となく「死にたい」で検索したら、このHPにたどり着きました。 ご縁(誤縁?)でしょうか!? 生きていて幸不幸は半分半分なんですよね、どっちの半分を意識するかで楽しい気持ちになったり、塞いだりしてしまうんですよね、とは言いつつ、そんな冷静に自分を見つめられる訳がなく、だから生身の人間なんですよね。 「順風満帆な人生」という言葉をよく耳にしますが、どんな豪華客船だって、嵐や思わぬトラブルが全くないことはないので、因果応報とは言うものの、旅の過程ではいろんな危険や不幸にみまわれて、タイタニック号のような結末を迎えることもあります。 人の人生だって、自分だけがどうしてこんなに不幸なんだろうと思ってしまうから、自分の人生を厭おってしまう。 人生を生きるってことは、人と付き合って行くこと、そして自分を日々変えていくこと、人への思いやりや社会の一員であることを忘れて、我がまま放題に、ただ食べて生きているのは、人間とは言えないんじゃないかなぁ。 人間として生きているからこそ、そのバックボーンの死を考えてしまうこともある。なんて、何もできてない自分に言い聞かせることができるHPに感謝します。 |
name=莫・申そう
_subject= 何のために生きるのか
_message=
細かく考えると、無数に理由がありすぎてとても書ききれない気がします。 |
name=Hiro
_subject=思うこと
_message=
what's new?でgoshinさんが「Yuyu's Lounge」のYuyuさんの随筆を紹介してました。「 私のいのちは、意味などという低次元な理性の装飾を必要とするほど安っぽいものではない。」というYuyuさんの言葉を読んで、「理性を疑うことを知って初めて生きることが見えてきた」と言っていたgoshinさんの言葉を思い出しました。何のために生きるかを考え抜いていくと理性の装飾も理性の武器もなんの役にも立たないことに気付かされる。それに気付かなければならないからその問いが体の芯に埋め込まれているのではないだろうか
name= 玄生島さんの一番弟子
_subject= 「何のために生きるのか」について
_message=
ぼんやりと「悲しい」と検索したらたまたまこちらのホームページをみつけて見させて頂きました。みんな苦しみや悲しみを抱きつつ生きていることがすごく実感できました。投稿をみて涙がボロボロこぼれました。きっと誰か彼かの言葉がずっと言って欲しかった言葉だったのでしょう。 |
name=ちはや
_subject= 何のために生きるのか
_message=
初めまして、takaと申します。 1年後の就職活動をきっかけに悩み出した大学生です。 全ての投稿に目を通し、色々と学ばせて頂きました。 他の方の参考になるかもしれないという想いから、 私の考えを書かせて頂きます。 ---------------------------- 私は、 『他者への奉仕に喜びを見出す事が自他共に幸せである、という「推測」の下、 これを実践し、その「推測」が妥当か否かを判断する (願わくば妥当であることを身を以って証明する)ために生きたい』 と考えました。 ただし、私は非常に恵まれた環境で育っており、 現実の厳しさを知りませんので、 社会を恐れ「実践」できない、 あるいは「実践」しても続かない可能性が高いなとは感じています。 しかし、このような考え方が芽生ただけでも、大きな前進だと思っています。 ---------------------------- 以下、蛇足です。 「推測」としたのは、他者への奉仕が自分の幸せに繋がるという事に対し、 直感的には“そうだろう”という思いがあるが、 納得のゆく(論理的な)説明に出会った事がないためです。 「生きる意味・目標なんて無くてもいいじゃないの?」 という御意見がありますが、 私は“こじつけ”であろうと意味・目標を見出さないと、 一時は誤魔化されても、後に虚無感が襲ってくると考えます。 逆に、見出した者は信じられないパワーを発揮でき、 充実した人生を送れるとも考えています。 私の仏教との出会いは「般若心経」でした。 しかし現在は、現実を冷静に見つめ、 最終的に「般若心経」的な思想を得よう、 というスタンスに変わっています。 最近、「良い人間関係の作り方」などの、 精神面を説いた本が良く出ている(=売れている)ようです。 どの本もテクニックの紹介という扱いをしていますが、 結局「我欲を抑え他者のために行動する」ことが原点にあるように思えます。 ---------------------------- |
name=taka
_subject= 「死にたいと思いながら生き延びた経験談
_message=
私は何年か前に抗精神薬・導眠剤を大量に飲みました。 |
name=ヴァリィ
ご投稿をありがとうございました。心より御礼申し上げます。
米沢英雄先生は「本当の自分に出会うため」と答えて下さいました。
應瑞寺ご住職は「自分を生かす」ということをお教え下さいました。
このような心に残るお言葉にも出会いました。