の為に生きるのか    最新のご投稿 159〜

ご投稿して下さった方々  (敬称略、ご投稿NO.をクリックしていただくとそれぞれの方のご投稿へリンクします)
ご投稿NO. name subject
178 二十歳の大学生 人生に喜びを見つけることは必要ですか
179 莫・申そう 人生を生きるってことは(件名なしのため仮題)
180 Hiro 何のために生きるのか
181 玄生島さんの弟子(自称) 思うこと
182 ちはや 「何のために生きるのか」について
183 taka 何のために生きるのか
NEW!184 ヴァリィ 死にたいと思いながら生き延びた経験談


ご投稿178

_subject= 何の為に誰のために生かされてるのか

_message=   

人生に喜びを見つけることは必要ですか。その中に他人が入ってくることはありますか。

私は高校時代、学校に対する不満からある行動を起こしました(詳細は長くなってしまうので省略させていただきます)。適当に学校に見切りをつけて適当に過ごせばよかったのかもしれませんが学校がすべてにならざるを得ない状況でしたし、問題を直視しなければ何も良くならないと考えて、行動したのでしょう。

結局、私はこの一件ですべてを見失いました。2年ほど大学に通いながらやっと自分について見つめ直し、今の学校に転校して3年生となった今、卒論の準備として読んでいた本でこのホームページのことを知るに至りました。

最近、高校時代のクラスメイトが大学で様々な活動に力を入れていることを知り、喜ばしく思いながら高校時代を回想しています。高校時代の自分は学校に執着するあまり先生方とも衝突し、結局自分の主張の趣旨をうまく伝えることができませんでした。

それを反省すると同時に、責任が自分だけにあるとしないのはやはり周りにも自分と同じような考えを持っている人がいたこと、さらに学校が学生の実態を踏まえた対応をしようとさえしないということに対する問題意識からです。そしてなにより、すべてを自分の責任にすると自分を全否定するようで生きていけなくなってしまうような気がするからです。

私は自分ひとりで行動し、それも決して行動と呼べるほどではなくgoshinさんの時代の全共闘運動とは規模も内容も貧相でした。しかし、あの頃の私は16歳でショックも大きく、今でも当時を忘れることができません。もしかしたら、忘れるよりも心に留めておいて誰もが人生を喜びを持って生きることができることを願って行動していくことが私の務めかもしれないと思っています(大袈裟ですね)。

お返事でgoshinさんは、「人生に喜びを見出す必要がある」ということにはそれほどこだわっていらっしゃらないように思いましたが、確かにそうです。

にもかかわらず誰もが喜びを持って生きていけることを願わずにはいられません。

高校時代のクラスメイトに比べて自分は未熟だと思い知らされながらも自分を正当化することでしか生きられない。幸いにも今は大変恵まれた生活をしているにもかかわらず昔をあえて記憶に留めようという考えにより自分を自ら苦しめすべてが空しい。

name=  二十歳の大学生    



ご投稿179

_subject= 感謝のため

_message=   

何となく「死にたい」で検索したら、このHPにたどり着きました。
ご縁(誤縁?)でしょうか!?

生きていて幸不幸は半分半分なんですよね、どっちの半分を意識するかで楽しい気持ちになったり、塞いだりしてしまうんですよね、とは言いつつ、そんな冷静に自分を見つめられる訳がなく、だから生身の人間なんですよね。

「順風満帆な人生」という言葉をよく耳にしますが、どんな豪華客船だって、嵐や思わぬトラブルが全くないことはないので、因果応報とは言うものの、旅の過程ではいろんな危険や不幸にみまわれて、タイタニック号のような結末を迎えることもあります。

人の人生だって、自分だけがどうしてこんなに不幸なんだろうと思ってしまうから、自分の人生を厭おってしまう。

人生を生きるってことは、人と付き合って行くこと、そして自分を日々変えていくこと、人への思いやりや社会の一員であることを忘れて、我がまま放題に、ただ食べて生きているのは、人間とは言えないんじゃないかなぁ。

人間として生きているからこそ、そのバックボーンの死を考えてしまうこともある。なんて、何もできてない自分に言い聞かせることができるHPに感謝します。
                                 

name=莫・申そう      


 ご投稿180

_subject= 何のために生きるのか

_message=   

細かく考えると、無数に理由がありすぎてとても書ききれない気がします。
でも最大の理由は「死なないために」じゃないでしょうか。

やはり動物にとって、「死ぬこと」は最大の苦痛なんじゃないでしょうか。そして、「生きること」のなかにはさまざまな喜びがあるんじゃないでしょうか。

たとえば「食べる」ということ。つまりほかの生き物を取って食うことです。食われた動物は当然死にますので、最大の苦痛を受けるでしょう。でも、食わなければ自分が死にますし、空腹を満たすことはなんとも喜ばしいことですね。

自分にとって最大の喜びが、他者にとって最大の苦しみだということですね。たぶん単細胞生物や菌類や植物は感覚器官がないので、食われても苦痛を感じないでしょうけども、「多細胞動物」は捕食するために動き回ると同時に、捕食されないために動き回る。ちょっとでも油断したとたんに、誰かにつかまって生きたまま牙で引き裂かれる、丸呑みにされる、体液を吸い出される、溶かされて吸い取られる。

生きることは自然界の動物にとって、常に戦場にいるような危険なことです。自然界においては、死亡原因の第1位は、ダントツで「食われた」ということでしょう。

一回の産卵で、何万個も卵を産むものから、哺乳類にいたるまで、すべての動物にいえることは、ひとつがいの親から生まれた子供で、成体になるまで生き延びられるのは、平均するとおよそ2個だけであるはずだということです。それ以下なら絶滅するし、それ以上なら人口爆発になるのだから。あとの個体は、ほとんどが「食われて」死んでしまうのですね。

あらゆる生物にとってもっとも根源的な要求であるはずの、自己複製活動(生殖活
動)すらも、ごく幸運な個体にしか許されてはいないのですね。

われわれ動物にとって、生きるということはなんと因果なことでしょうか。

しかしそれが自然界なんですね。
いまもわれわれが知りもしないところで、無数の生命が生まれ、喰らい、あるものは生み、そして喰らわれ、死んでまた喰らわれ、また生まれ生まれる。繰り返し繰り返し。。。。

人間もまた自然界の一部だから、その営みから超絶した存在ではない。すべての生のいとなみと、すべての死が、われわれを生かし、殺す。われわれの生と死が、すべての生と死につながっている。

すべての生の営みが、なんとはかなく、むなしく、苦しみに満ちたものであることか。

そしてそれらすべてのことを人間だけが知ることができる
「知る」という木の実は人間の宿命であって、避けることはできない。目をつぶって見ないこともできますが、そのことでまた新たな苦しみを生み出してしまう。

「知る」ということ、それが「不幸」ということの始まりなんじゃないでしょうか。
しかしその「不幸」を知った人間だけが、ほんとうの「幸福」ということも知ること
ができるのかもしれない。


name=Hiro      


ご投稿181

_subject=思うこと

_message=   

what's new?でgoshinさんが「Yuyu's Lounge」のYuyuさんの随筆を紹介してました。「 私のいのちは、意味などという低次元な理性の装飾を必要とするほど安っぽいものではない。」というYuyuさんの言葉を読んで、「理性を疑うことを知って初めて生きることが見えてきた」と言っていたgoshinさんの言葉を思い出しました。何のために生きるかを考え抜いていくと理性の装飾も理性の武器もなんの役にも立たないことに気付かされる。それに気付かなければならないからその問いが体の芯に埋め込まれているのではないだろうか

name= 玄生島さんの一番弟子     


ご投稿182

_subject= 「何のために生きるのか」について

_message=   

ぼんやりと「悲しい」と検索したらたまたまこちらのホームページをみつけて見させて頂きました。みんな苦しみや悲しみを抱きつつ生きていることがすごく実感できました。投稿をみて涙がボロボロこぼれました。きっと誰か彼かの言葉がずっと言って欲しかった言葉だったのでしょう。

私の心の中にも習慣のように死にたい・生きなくちゃ・死にたい・でもまだ死ねない…という想いが繰り返し生まれてきます。ものごころついた頃からずっと。それはきっと終わることはないと思っています。

端からみたらなんて力の無駄使いをしているんだ、と思われることだと思っています。でも人の心は究極的にその人にしかわからない、他の人はわかってあげようと努力するしかないのだと思いました。でもそれでいいのだと思います。みんながみんなお互いに想い合っていればどんなに良い世界になるだろう、と思います。

ですが人には様々な人がいて想いも考えも信念も環境もみんな違う。ニュースを見るたび誰かが殺されたり犯罪が起きたり…私もそんな人間とおなじ人間という生物種であることに胸を痛めてきました。

私はあまり神とかは信じないのですがすべての心の一番尊い姿がそれなのだと思っています。

みんな生きることを苦しみ、恐れ、救われようとする。より尊い姿になりたいと願う。ですが宗教がらみの争いも起きてきました。私は誰もそんなことは望んでいないのに、と思います。この世で一番尊いものが神とかであるならそれは殺人などによる誰かの死など望まないだろうにと思います。

自分にとって誰かの死がとてつもなく悲しいのと同じように自分の死も誰かを悲しませてしまう…それができなくて自殺を思いとどまったことがありました。死はほんとに悲しいものなのだと様々な方の言葉を読んで再認識しました。

私は生きる意味についていろいろ考えてきましたが結局たどりついたのは一生懸命今を生きるしかないということです。

公園に立っている大きな木も動物も一生懸命、ただ、生きているから美しい。それは家族や友達、テレビの中のマラソン選手でもなんでもやっぱり一生懸命って本人は気づいていなくても周りをも頑張る気分にさせる。私もそうありたいと思いました。

頑張らずに、一生懸命、正直に、そしてどこまでも優しく生きる。それが私の生きることの全てだと今思っています。

それでもつらくてどうしようもないときはある。今日ホームページをみさせていただいてとても落ち着きました。

いろいろな人の意見を見ているうちに自分の心が整理されていくのがわかりました。
ほんとうにありがとうございます。

ちはや

name=ちはや      



ご投稿183

_subject= 何のために生きるのか

_message=   

初めまして、takaと申します。
1年後の就職活動をきっかけに悩み出した大学生です。

全ての投稿に目を通し、色々と学ばせて頂きました。
他の方の参考になるかもしれないという想いから、
私の考えを書かせて頂きます。

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私は、
『他者への奉仕に喜びを見出す事が自他共に幸せである、という「推測」の下、
これを実践し、その「推測」が妥当か否かを判断する
(願わくば妥当であることを身を以って証明する)ために生きたい』
と考えました。

ただし、私は非常に恵まれた環境で育っており、
現実の厳しさを知りませんので、
社会を恐れ「実践」できない、
あるいは「実践」しても続かない可能性が高いなとは感じています。

しかし、このような考え方が芽生ただけでも、大きな前進だと思っています。

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以下、蛇足です。

「推測」としたのは、他者への奉仕が自分の幸せに繋がるという事に対し、
直感的には“そうだろう”という思いがあるが、
納得のゆく(論理的な)説明に出会った事がないためです。

「生きる意味・目標なんて無くてもいいじゃないの?」
という御意見がありますが、
私は“こじつけ”であろうと意味・目標を見出さないと、
一時は誤魔化されても、後に虚無感が襲ってくると考えます。
逆に、見出した者は信じられないパワーを発揮でき、
充実した人生を送れるとも考えています。

私の仏教との出会いは「般若心経」でした。
しかし現在は、現実を冷静に見つめ、
最終的に「般若心経」的な思想を得よう、
というスタンスに変わっています。

最近、「良い人間関係の作り方」などの、
精神面を説いた本が良く出ている(=売れている)ようです。
どの本もテクニックの紹介という扱いをしていますが、
結局「我欲を抑え他者のために行動する」ことが原点にあるように思えます。

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name=taka      


ご投稿184

_subject= 「死にたいと思いながら生き延びた経験談

_message=   

私は何年か前に抗精神薬・導眠剤を大量に飲みました。
当時の日々の諸々と情緒不安定、元来強いタナトスが重なった結果です。

実行の朝、頭はとても冴えていて、冷静で、「これで目が覚めてしまったら
諦めて生きよう。目が覚めなければ諦めて死のう」と自分の生命力を試し
ました。目が覚めた時にも会社に迷惑がかからないよう、三連休前、土曜の
朝に決行しました。そのくらい冷静でした。

3日間眠り続けて、4日目の朝目が覚めました。
無意識のうちに起き上がっては倒れたらしく、顔中傷だらけでしたが
薬の副作用かと深く考えずに出社しました。体が重かった。

次の日、やはりおかしいので病院に行ってから出社しようと思い、病院で
見てもらったところ、即入院となりました。自分で思ったよりまずかったようです。

入院している間は親に頼んで買ってきてもらった般若心境を読んで
空(クウ)について考える日々でした。多忙から突然暇になったので。

自分との約束、簡単には死ねないという悟り、入院生活で分かった親の心配、
そういったものを胸に今は生きています。今も死にたいけど、生きています。

name=ヴァリィ      



ご投稿をありがとうございました。心より御礼申し上げます。

皆さまからのご投稿を無駄にしないようページを充実させていきます。
                                                       

もしお時間がありましたら、是非、下記もご覧にな っていただけたら嬉しいです。どうか今度とも宜しくご指導下さい。
 
(今月の言葉1998年11月)良い地に落ちた種 −聖書に生かされた石川正一君の詩−
たとえ短い命でも生きる意味があるとしたら、それはなんだろうと問う死 の宣告を受けた中学生の詩です。
(仏教Q&A98.10.15)
最後には死んでしまうのに、どうして一生懸命生きなければならないのですか?
何の為に生まれ、何の為に生きているのでしょうか?
  
心に残るお教え

米沢英雄先生は「本当の自分に出会うため」と答えて下さいました。

應瑞寺ご住職は「自分を生かす」ということをお教え下さいました。

このような心に残るお言葉にも出会いました。

 
  
  

  
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