極重悪人唯称仏

我亦在彼摂取中

煩悩障眼雖不見

大悲無倦常照我


(1)聞法の喜び

 正信偈」のこの4行にわたしの「聞法の喜び」が凝縮されています。大袈裟だと思われるかも知れませんが、この一節はわたしの「生の重心」でもあります。
  
 「 極重悪人」と呼びかけられ「唯称仏」と願われながら、逆らいづめのわたしです。 そんなわたしが生かされ願われ続けている世界が「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」の世界です。
     
 その世界とわたしとを唯一結んで下さるのが「お念仏」です。わたしにとって聞法とは、この呼びかけを聴かせていただくことであり、念仏せしめられてその世界にホンの一瞬触れさせて頂くことが聞法の喜びです。
  
 けれども、すぐにまた飛び出して、逆らい、またまた「極重悪人唯称仏」と呼び戻されます。その繰り返しを「一生涯聞法」と教えて下さっているのだと思います。
  
 ですから、わたしにとって聞法の機会はお聴聞の場だけでなく、生涯の一刻一刻、生活のすべての場にあります。
  
 例えば、ある日、他の宗教の伝道者が訪ねてこられます。わたしはお念仏の教えに生きる者だからと、帰っていただこうとします。
   
 ところが、相手の方があまりにしつこくご自分の信仰の正当性を主張し、その上、お念仏を誹謗したりすると、笑顔の下にムクムクと負けん気が起こってくるのを押さえることが出来ません。心の中で、親鸞聖人のみ教えを盾にその方の信仰を裁き始めます。
  
 そんなとき、「極重悪人唯称仏」と呼びかけが聞こえてきます。わたしの聞法とは、この呼びかけを聴かせて頂くことです。ああ、また飛び出していたな・・と気づかされ、お念仏によって重心の世界に戻していただけることが、何よりの聞法の喜びです。
  
 阿弥陀様の呼びかけに逆らい続けるわたしですが、お念仏によって重心に戻していただけるからこそ、どんな時でも安んじて生きていくことが出来ます。
  
 わたしにとって聞法の喜びとは、「どんなときでも」「どこでも」「わたしなんかでも」「いつまでも」喜ばせていただける永遠の喜びであり、苦しみや悲しみを超える絶対の喜びです。
    
大悲無倦常照我」の喜びです。
     
  
 
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