法話・講話・講義録のご紹介
H P「 時代おくれ 」
- H P「 時代おくれ」の管理人hide-meさんは多くを語られません。
- 唯念仏をお教え下さるhide-meさんはわたしにとってコワくキビしいおかたです。
- けれども同時にもっとも心安らぐお方であらせられます。
-
このサイトの「随筆かも知れない」はハードディスクに保存して、繰り返し繰り返し拝読させていただいてます。
- HPの管理者の方のご許可を得て、掲載の法話・講話の目次を紹介させていただきます。
- 茶色の文字はリンク先HPからコピー&ペーストさせていただいたものです。
「かく語り賜いにき」(表紙より”内容案内所”へ行き、右の上から3番目をクリック)
- 明治24年発行の以下の書籍を、縦書き表示で入力して下さっています。
- (以下の茶色文字の「はじめに」は横書きに入力し直したものです。)
はじめに 管理人述
この一冊は私の叔父が買い求めたものと思われる。
カバーに二四・九・五と書かれ その下に名前がある。
叔父は肺を病んでいた。没年は昭和二十五年である。
終戦後は父も三年に渡る抑留生活を余儀なくされ、
無事に帰還したのがこの前年であった。その父もすで
にお浄土へ還らせていただいたが、帰還後すぐには職
もなく呆けたような状態であったと生前に語っていた。
昭和二十四年当時我が家は赤貧洗うがごとき生活から
ようやく抜け出せるかという時期であったと思われ、
この本の代金百五十圓はまだまだ大金であったに違い
ない。
親族であるなしに拘わらず、自分の死期を悟った一人
の人間が命をかけて読んだこの一冊を私はいまもう一度
私自身に読み聞かせようと思う
なお万が一、著作権等について・・・・後略・・・
曽我量深師 「眞宗の眼目」
「内容案内所」にダウンロード用テキストも用意されています
第一講 現生不退の自覚原理としての欲生我国の招喚勅命
- 第二講 如来は衆生の救われるべき法を成就し給う
- 如来は直接の救済主に非ず
-
- 第三講 廻向と転入
-
- 第四講 道理と論理
-
- 第五講 至心信楽は欲生に始まる
-
- このHPでは管理人hide-meさんの「随筆かも知れない」も必読!心から、お勧めします。
-
-
- 「随筆かも知れない」
無題)平成14年11月29日
私は悟りを得たいとも思っていないし、救われたいとも思っていない。ただ、うまく言えないけれど、ご本願に生かされているという事実、大悲にすくいとられるという事実、我々にとって唯一の間違いのない厳粛で荘厳な事実に圧倒されるだけで、自分が念仏申しているかどうかを私は知らない。
あらゆるいのちがお念仏申すことによって生かされてある。いのちというものはお念仏によってある。そんなふうなことを思う私は、もはや真宗門徒でもないのかも知れない。
(無題)平成14年11月5日
お釈迦様はあらゆる存在のあり方を「縁起」と説かれました。それをまた龍樹菩薩が「無自性・空」と説かれたのは、縁に依らずに存在するもの、言い換えると自性するものの存在をお釈迦様以降にまた説くようになったからではなかったのでしょうか。縁に依らずに存在するものを仮定した「仏教」は、少なくともお釈迦様の教えに随順するとは言えないのですが、それでもやはり「仏教」と名が付いているわけで、それが仏教ではないとは言いません。けれども、それが仏教の発展し進歩した教えであるとは決して言えないと私は思っています。
人身 平成14年10月13日
他力のおはたらきのあるがままに生きられない生き物を人間と言い、あるがままでいられない自分が、分別し、自と他を区別し、他者を差別し、だから他者から区別され差別され、許す、許さない、許せない、許されないというようなことを言わざるを得ない。また、他力の教え、念仏の教えを「道具」にするということが起こり得るのも、人間が他力のおはたらきのままに生きられない生き物だからであって、例えば自分が腰を下ろしていると思っている座布団を、「あなたこれをお使いなさい」と道具として差し出せるのは、気がつけば自分の尻がその座布団からずり落ちているか初めからそこに座っていなかったからです。人間というものが、自分の力で座布団に座ろうと思えばいつでも座れると思っているものだからです。言い方が逆になりますが、そもそも自分と別個に座布団があると思っているものであるからです。
蛸壺のなか 平成14年9月30日
考えること、行動すること、人の為すことは必ず虚仮であり不実であり、偽りであるのです。だから「ただ念仏」と祖師は仰った。お念仏のほかに人が真実に出逢うことがあるのでしょうか。
愚態 平成14年8月26日
ご信心を私自身が私を騙す道具にしていないか。
「草引きばかりしていても疲れてしまうからHPの更新でもしようかと思って、そもそも書くこと自体が随分と変なことであるのは分かっていて書いて、書けば書くできりがないことばかり。それが僧侶の姿をしないといけないのだから、余計に。説教なんてとんでもない話だし、しかし、世の中の説教・法話の中にも嘘もあれば戯言もあるぞと、また思ってしまう。やっぱり草や蟻や蝉やトンボと話をしている方がよいのだろう。」
ご回向 平成14年7月30日
人間というもの、または時代というものが止揚され発展するものであるととらえるのは、因を回すれば所期の果が得られると考えるとびっきりの「善人」なのでしょ
う。悪人たる自覚の凡夫は、因も縁も我がはからうものでなく、もとより計らうこともできないということを知らしめられて、いつもいつも何の備えもなく、備えがないが
故にただお念仏だけがあって何の憂いもない。だから間違うことなく阿弥陀さまの南無阿弥陀仏に帰一していく。こういうことに新しいも古いもないのであって、無始
から尽未来際まで変わることのない常に新しい念仏往生の道理であるわけです。
勤行 平成14年6月4日
せんじ詰めれば、すべてがただお念仏もうさせていただくべしと仰せ
られてあるということになるのではないでしょうか。勤行に用いる正信偈も、ご開山ご自身が本願他力のおはたらきの中にあったことに気づかされ、仏教とは本願念
仏であると確認されたものであるのでしょう。大ざっぱですけれども、そういうふうに言えると思います。
門徒 平成14年5月10日
しかしながら、言葉というものに自ら好んで囚われることによって、絞める首が自分のものだけでは足りないから他人の首まで絞めあっている状況が一般的であ
っても、まったく別の所で端から見ればそんなふうな状況の持つ閉鎖性を際だたせるような伝統は連綿と続いているのではないのか。
なるほどあの人のような人を門徒というのだろうと理屈抜きに分からせてくれる人は、難しいことは言わずにお念仏もうしておられるのではないのだろうか。「清め
の塩」を誰かが気を遣って振りかけたら、さて、お念仏の人はどう言われるのだろうか。
非僧非俗
平成14年4月28日
お念仏とは、すでにあらゆるいのちあるもの、いのちないものがその摂取のおはたらきのなかにあるところに現れてくださったものだ。信じる心も念じる心も南無阿弥陀仏にあって、私が賜るご縁によって私が信じ、私が念じさせていただくからご信心であって、お念仏である。
仏事、俗事
平成14年4月5日
仏事・俗事と区別することに異議を唱える人は、「事」の側に仏事と俗事とがあるとして異議を唱えるのではないのでしょうから、事を仏事・俗事と区別する「人」の
側に異議を唱えるのであって、異議を唱えるそのときは自身を棚の上にあげることになって、やはりお念仏の智慧にそむいているというべきではないのでしょうか。
すべてがご縁によってあるがままにあるがままであると知るとき、真実の有り様を見ることができるとき、お念仏にであわせていただいているとき、こんなふうなこ
とも自ずから明らかになって来ているのではないでしょうか。区別は否定であり、行動と無行動とは一意であり、人は受動するものであり、仏は肯定するものである。
今回が6年目に入って一回目の「随筆かも知れない」になりました。相も変わらず自分の確認のためにわけの分からないことを書いています。わけの分かりやすいきれい事(?)より、わけが分からなくても本当に思っていることを書
いておく方がよいかという程度で公開していることをご勘弁願い上げます。
自燈明
平成14年2月22日
信が我々のものであって我々が仏を信じるということであるなら、その信は変わりもするし終わりもする。そうではない。信は阿弥陀さまにあり、その信のなかに我々
が生というご縁もいただいた。他力のなかにあって自力で計らうばかりのものであることをかねてしろしめせばこそ、仏願あり、仏智不思議の南無阿弥陀仏あり。
死んだらどうなるのかと問うのは凡夫道、どのようにして生まれきたのかを問うのが仏道と、そんな簡単なことでもないのだろう。けれど、死んだらどうなるかと問うこ
とが未来をいうのでなく、どのようにして生まれたかと問うことが過去をいうのでなく共に現在をいうのであり、只今のこの現在にご縁を知るということが仏道であるこ
とは確かなことであろう。
生というご縁をいただいたから老・病・死があるのでなく、生も老も病も死も同時にいただいたものである。今この現在にご縁を知らせていただけば、過去に生があり
現在に老・病があり、未来に死があるのでない。生も老も病も死も現在にいただく(いただいた)ものであるところに宿業が宿縁である道理が明らかであり、この道理
によって我々は自分に出逢うということが南無阿弥陀仏にであうことであるのを知らしめられる。
南無阿弥陀仏という円環状の道があり、我々の計らう心は自分が動いてそこを歩いているように思う。だから自分は何処へでも歩いていける、南無阿弥陀仏の道から離れようと
思えば離れることも出来ると思う。けれども、実には我々は動かず道が動くのである。
また別に、突飛なことを敢えていえば、阿弥陀仏という太陽があり、南無阿弥陀仏という公転があり、自力という自転があって、それらが総体として自然法爾である。
教訓(?)平成13年10月19日
少しだけ付け加えると、そういうことが第一の問題になる方も居
られるようなんですが、やれ機の深信だ法の深信だと言っているうちは機法一体なんてことは絵に描いた餅なんでしょうね。本当の意味で具体
的なお念仏があるから、絵に描いた餅でない具体的なお餅があるからそれをがぶっといただけるわけです。食べられないのは絵に描いたお餅
だけではないんですね、これは機から言えばということになるんでしょうけど、具体的なお餅も食べなければ食べられないお餅になるということで
す。
14日のお講で話したことを、記憶をたどって標準語に直して(?)書いてみました。合衆国大統領はベトナム戦争から「ゲリラ戦は通常兵力では戦
えない」という教訓を得られたそうです。私(私たち?)はお磨きから食べられないのは絵に描いたお餅だけではないという教訓を得たということに
なるのでしょうか。教訓にもいろいろあるようです
-
- 名宛人不明平成13年9月26日
-
- いかに逃避を企てようとも、人間がやはり自然の道理の中に生かされる者であることに変わりがないのは申すまでもないことであります。我々自身
もまた自然の道理そのものであるわけであり、我々のあらゆる苦悩は、自身の本来的なあり方からの乖離に原因するものであります。このことに目
を覆ったままで、苦悩をなくすために我々が為すすべてのことが我々に何をもたらすかは人間の歴史が雄弁に語っております。
-
- 自然の道理の世界、本願念仏の世界に生を受けられたあなたが本当に望むことは、すでにあなたに届けられてあります。あなたが願うことでは
なく、仏から、或いは本来的なあなたからあなたが願われていることがあなたの願いでありますことを念ずるばかりであります。
-
- 具体 平成13年9月4日
-
- 私たちが「具体的」と言っているものは、虚仮の中で体を具するのであり、当然の事ながら「私の作る虚仮の世界」の公倍数とでも言うべき現実の
なかでは理解しやすく効も用も大きい。それがどうのこうのというのではない。ただ、真実だけが虚仮を虚仮と知らせて下さるのであり、私たちは
私自身が虚仮不実の身であることをどこまでも深く知らせて下さる真実の教えに遇い難くして値遇したのではなかったのだろうか。
- 仏法(あるいは「お聖教」)とそれに値遇した私の自身に対する自覚が持つ意味と、それらが一味であると判断するのも別であると判断するのもど
ちらも間違いである。「具体」ということを考えていて、そんなことを思った。
-
益・無益 平成13年8月2日
益があるからお念仏申させていただくのでなく、無益だと言われればお念仏申さなくなるのではない。一念帰命の廻心にすでに救われてあるわ
たしを知らされ、よろこぶべきことをよろこばぬ私の煩悩具足の凡夫たる更に深い自覚に救われない私を知らされ、救われない私であることを「か
ねてしろしめし」て、その私をこそ「ことにあわれみたまう」如来の大慈大悲に、名号となってあらわれて下さった阿弥陀さまに、ただもう南無阿弥
陀仏と感謝するしかないのだ。
益があるという人は益をいただける私ではないと知るべきで、益がないという人は、言うところの益が人間の分別が想定した益だと知るべきなのだ
ろう。益も無益もないのが益だというのが、私たちの限りではもっとも適切な言い方なのかも知れない。
- 大自覚 平成13年7月15日
-
- お念仏により救われてあるいのちを知り、お念仏によって救われない私を知る。救われない私を知らせていただいて救われてあるいのちを知ら
せ ていただく。救われてあるいのちを知らせていただいて、また救われない私を知らしめられる。これは言葉を弄しているのでなく、念々相続。
念々 相続してあらゆる救われない私を知らしめられ、そうして救われてあるいのちに帰一するそのときすべての衆生が救われてある。こういうこ
とが分 かるというのでなく、こういうことを自覚とする。法蔵菩薩は念仏の衆生の代表者であって往生成仏の体験者、出来た人(しゅつらいした
人という意 味でもある)のなかの出来た人である。
-
- 出来た人 平成13年6月25日
-
- 「勉強ができる」とか「仕事ができる」という「出来る」という言葉の使い方があって、「優れている」とか「有能である」というような意味に使われるよう
です。病気とかひどい怪我で長期入院でもしていたら、勉強も仕事もすること自体ができないわけですから、「優れている」とか「有能である」とい
う意味のまえに「勉強や仕事をしていられる環境にある」という意味があるのではないでしょうか。優れていて有能な人に限ってそういう意味に気
づくのが難しいように思いますが、いかがでしょう?
- ・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・
- 法の深信から機の深信が開かれ、機の深信によって法におさめとられる。これは摂取と治定を「おさめとる」と言っているわけで、南無阿弥陀仏
に帰する、一体になる、一如となるということです。法の深信・機の深信と言っても二つバラバラなのではありません。南無と阿弥陀仏が別でな
く、南無阿弥陀仏であって念仏である。
-
- お講の風景 平成13年6月19日
-
- 「本当にお陰様ということに気づかせてもらったら、あれもこれも全部を両手で南無阿弥陀仏といただかせてもらえる。いつだったか上山奉仕に
行ったら本山の教導さんが恐い人だったから、もう行くのが嫌だとか言う人がいたけれど、ガツンと怒られでもしないとなかなかお粗末な自分だと
いうことに気がつかないのではないか。頭で分かっていてもダメだ。自分は愚かな人間だと自分で言っていても、いざ他人にお前はアホだといわ
れると腹が立つのだから、二重人格になっているわけで、いい子ぶってるだけの話なんだけど、それになかなか気が付かない。分かっているよう
で分かっていない、それだけ自我が強いということだ」。
- これは今月第二日曜のお講で「無性にはじまる生がある」ということについて話した後、70代半ばの男性の方が仰有ったことです。話したいとい
うか、話すことがあるという方は話をなさいます。にこにこと黙ってお茶をいただいておられる方もあります。
-
-
- 放言−いわずもがな−平成13年5月30日
-
- 有漏の身が教えをいただいても有漏の身である。むしろ教えをいただく以前よりも堅固な有漏の身となるのであろう。念仏いただいて称名念仏さ
せていただけば、有漏の身が有漏の身でありながら、いわば全漏の身にもしていただける。名が号となって名号として表れてくださった仏が南無
阿弥陀仏である。何かしらの「私」を保つ有漏の身の私が、あらゆる執着を離れるいわば全漏の身にならせていただけるのは、この仏のみ名を称
える即の時である。その即の時、願に生かされ、願に生きる法蔵菩薩であるのである。念仏が現生不退である道理である。
- 無論、智慧の眼はすべての衆生がお念仏申しているとご覧になるのである。称名念仏の教えから称名念仏がなくなったというのは、お念仏申せ
ない私が思うことである。教えと言えば念仏(称名念仏)であったものが、もともとひとつの「念仏の教え」であったものが「念仏」と「教え」になって
いると思うのは、お念仏申せない私だけであろう。
- ・・・・・・・・・・・・・・
- ご開山聖人は仏教を念仏と確認された。それが称名念仏の教え、本願念仏の教えであろう。ならば、いただくべきは念仏であって、教えをいた
だいてそれを学問しようとするのは疑謗に等しいことともなろう。学問はすべきことであるが、学問すべきは自己を、私をである。
-
- 放言-その3-平成13年5月10日
-
- 自業自得の道理で、我々はそれぞれが宿縁のもよおしにより宿業の自覚のところにお念仏に値遇した。そのうえで、我々が問題とすべきはた
だ 一つであるはずである。・・中略・・ 本能であるはずなのです、私に真実の心はないということを「言葉で」ではなく知る、信知するということ
は。いまやみんなが立派な理性の人で、 理性の人というものは、本能を失いつつある人のことなのかな?
-
- 放言-その2-平成13年4月16日
-
- 一念帰命はいのちのご縁のときにある。それが言いすぎだというのは、いのちという言葉を知らないものである。
-
- 念仏が我が身の事実を知見する手段・方法であるときはいまだ十九の願、しかしながら十九の願と十八願とが別にあるのでない。だから、お念仏
もうさせていただくところに我が身の事実が知れてくる。いのちのご縁を賜ったとき、すでにご本願は成就なされてあったと知れてくる。
-
-
- 放言平成13年3月30日
-
- 世界、あるいは世間の混沌たる様は、整然とした秩序の下にある。あらゆる矛盾・不条理の類は、実に道理のままにそのように現れている。こん
なふうなことを、人間は時々に思想として持つものであるらしい。思想が智慧にならないところが人間の人間たるゆえんであるのだろうか。
-
- お念仏もうさせていただくということは、だから、他力ご回向の世界にいのちのご縁をいただいて、お念仏もうさせていただいている我が身の事実
に気づかせていただくということでもある。宿業が宿縁であると気づかせていただくときに、阿弥陀となづけたてまつるのである。
-
- いのちのご縁ということによればこそ、それぞ れの人が単に個人にとどまらないということがあるわけです。
-
- 宿業 平成13年2月16日
-
- 善悪の宿業たる自覚をもって初めて「他力」の発見があり、その善悪の宿業たる自覚を促すのもまた「他力」であったのである。「本願・他力」に値遇するのも宿業によってであればこそ、宿業のままの私としてあるすべてのものがご本願、他力ご回向に救い摂られる。それを宿縁という。
-
- 宿業ということは自業自得の道理である。自果から自因を見いだす道理である。道理とは自覚の有無にかかわらず働いていてくださるもの、だから宿業のままの私が機であって、ただもう「本願を信じて念仏もうさば仏になる」、「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」。
-
- 不可思議 平成13年1月26日
-
- 不可思議とはお念仏しかないということだ。
- 私の口を割って出て下さっているお念仏が、仏恩報謝だいや自力だと言うのは、すでに理屈です。理屈ばかりを言いたがり、理屈ばかりを言う私
です。
-
- 不思議 平成13年1月3日
-
- 不思議であるとは感謝するしかないということだ。
- 中略
- お念仏申させていただくとは、不思議を不思議だなぁといただくことだとも言えるのでしょうね、感謝するしかないんです。生きたいと願う心は心の
ままに「生きたいよ〜!」と叫べばいいし、死にたいと願う心は心のままに「死にたいよ〜!」と叫べばいい。ただし徹底的に、声がかれるまで。声
がかれる頃には色々と願う心のおしゃれもなくなって、心(しん)に声にならない言葉が残るんじゃないか、それこそが真実の言葉ではないのか
な。
-
- 自我と我執 平成12年12月11日
-
- 私は罪の深い者だ思うところにも、実は自分を断罪しながらペロリと舌を出さないまでもいかにも暢気すぎる「私」がいます。「倫理」や「道徳」は、
ここでは働きがありません。では何の働きがあるかといえば、ここにこそ「仏法」の働きがある。我執がなければ我執を離れる働きは用のないもの
です。自我を武器に言い争いをしている相手からは自分の足で私の方から離れられるのですが、自分というものからも自分と向き合う自分というも
のからも私たちは離れる術を持ち得ません。だからこそ、「仏のかたより」ということがここにあります。お念仏によって我執を離れさせていただくと
いうことがあるのはここです。我執の世界、しかしながら同時にそこは仏法の世界、お念仏の世界です。
-
- 「自我」と「我執」ということが区別を失うと、例えば仏法が道徳になりはしないでしょうか。人と人とが互いに尊重しあうことが仏法だということになる
と、仏法は仏法でなくなりはしないでしょうか。
-
-
- 慚愧 平成12年11月17日
-
-
- まことに希有なことにお念仏の中で生活をされた先人の金言を、生活の中でお念仏する私がいただけずに捨て置くならまだしもであります。私は
もう何をも言わず、たとえそれが自力根性のままであっても、ただお念仏だけさせていただくべきなのです。
- 私が「お念仏と生活とが離れて別にあるのでない」と言うとき、長い間「生活の中にこそお念仏がなくてはならない」と考えていたように思います。
大変な間違いをしていました。で、舌の根も乾かぬうちに言うのですから厚顔無恥も甚だしいのですが、ご開山のお言葉としての「六道輪廻」など
は、むしろこういう意味あいと受け止めるべきなのでしょうね?
-
-
- 平成12年11月5日 平成12年10月30日
-
- 清浄なる仏願が、いわば親の元を離れて彷徨う私のこの今に成就しないものであれば、「仏恩」とは、「報恩」とはどういう意味を持つのでしょう。
真宗が「仏恩報謝」ということをいうのは、どういう理由からになるのでしょう。
- 死後に実体としての「浄土」を夢見ていて、今のことはあきらめるけれども、せめて死んだらお浄土へ連れていっていただきたいと思っているので
あれば、生きている今、「仏恩」とは実に曖昧なものであり、「報恩」とは口で言うだけのものになりはしないでしょうか。
- ・・・・・中略・・・・
- 生かされてある今に救われる道を指し示して下さるのが真宗です。だから、仏恩報謝ということもまた具体的なるお念仏のほかにありはしません。
まったくとりとめのない文章になってしまいましたが、確かめたかったのはだいたいそういうことです。
-
- 感想文 平成12年10月11日
-
- 回され帰されるべき私が私であって、その私が知り得ない私を私とは言わないのでしょうが、他力とは、私が私の知り得ない私へ回帰しようとする
働きであり、本願とは私の裡にある私の知り得ない私に還りたいという、私が私である以前からの私の願いである。
- ・・・・・中略・・・・
- 浄土真宗は、お念仏をいただくということです。お念仏いただくとは、私の裡にある私の知り得ない私に還りたいという、私が私である以前からの
私の願いによって、私が私の知り得ない私に回帰し、願いそのものに還るということです。すでにして南無阿弥陀仏によってある私が南無阿弥陀
仏の歴史になるということです。・・・後略
-
-
- 余計なお世話 平成12年9月30日
-
- たとえば「諸法無我」というときの「我」は、いわゆるアートマンです(よね?)。そういうことができるとして、縁というものを完全に取り払ってしまって
も残るもの、自性する主体がないということが「諸法無我」の「無我」ということです。ですから「諸法無我」の「我」は「自我」ではないわけです。
- またたとえば「諸法無我」とは別に「無我」というときの「我」はいわゆる我執(アハンカーラ)・我所執(ママカーラ)です(よね?)。「"私が"とする」
執着と「"私のもの"とする」執着です。ですから「諸法無我」とは別に「無我」と単独に使われるときの「無我」の「我」も「自我」ではないわけです。
-
-
- ある確認 第3回 平成12年9月6日
-
- ご縁のままにしか生きられないということは、あらゆる存在が他力に生かされている自然法爾のこの世界の実相を示す言葉です。
- ・・・・・
- ・・・
-
- 上に例示した説明、言葉は虚仮不実なる「私と私の世界」のものです。法の世界の私と仮設の私(煩悩である有身見の私)と二人の私が別にあるのでなく、私のものとしている命(生があり死がある命)とご縁としていただいたいのちと二つが別なのでないということにおいて煩悩即菩提、生死即涅槃という関係があるのでしょうが、こういうことを明らかに知らせていただいても、やはり虚仮不実なる「私と私の世界」が私の住処であることに変わりはありません。
-
- 阿弥陀さまの本願念仏である南無阿弥陀仏は虚仮不実なる「私と私の世界」のものではありません。そもそも言葉であるとすれば方便としてのみ言葉であるのでしょう。この南無阿弥陀仏において発願回向もあり摂取不捨もある。煩悩即菩提、生死即涅槃が即得往生、住不退転となるのは南無阿弥陀仏においてであるということが言えるでしょう。
- ただ煩悩即菩提、生死即涅槃ということの知見ではやはり私は生死輪転の家に住する。煩悩即菩提はまた菩提即煩悩でもあり、生死即涅槃はまた涅槃即生死です。帰っていくのが法の世界であるか「私」の世界であるかの違いが「住する」ということにあるように思われます。
- --------------------------------------------------------------------------------
- 自分が何を確認したかったのかということも今となってはおぼつかないのですが、「即得往生、住不退転」が命終わって後のことなのか、そうではなく現生においてなのかが問題になるのは、学問しているわけではないのですから、私が「生死輪転の家」に住していることのあかしであるということなのでしょう。ご縁のままに、やはり生死に身を置きながらも、帰るべきところがどこになるかということを
-
-
- ある確認 第2回 平成12年8月16日
-
- 「ご縁のままにしか生きられない」ということは、私というものの本来の有り様を表す正確な言葉です。
- ・・・・・
- ・・・・・・
- 自覚のない私がいかに自力ではからおうとも、いかに善悪正邪を分別しようとも、それがまた自力無効を私に自覚させて下さるのが絶対である他
力、他力本願の摂取に与ればご縁のままにしか生きられない私ながらにまたご縁のままに生かされます。
- ・・・・
- 蛇足ながら付け加えると、私が虚仮を証人に真実の真実たることを証明しようとするとき、まず問われるのは証人が虚仮であるのか真実であるの
かということで、現前する世間の正義は虚仮なのですから必ずそれが第一の問題となります。仏教の教えに導かれて社会的行動をとることは間
違いではないでしょうが、社会的行動をとることが仏教の教えであると考えるのは間違いです。
-
- ある確認 第1回 平成12年8月10日
- 「ご縁のままにしか生きられない」ということは事実を表す厳格な言葉です。
- 私たちの意志というものも、それによる行動というものも、実にはすべてが業縁のもよおしに他ならず、それに気が付かない私が私による意志・私
による行動と解釈しているに過ぎません。私のはからいで為しえることは何一つないということは厳格な事実です。
- 言い添えるまでもないことですが、この厳格な言葉は同時に「自因自果」ということを表すわけです。ですから何か勘違いをして自分のしでかした
ことの言い訳にしようとしても言い訳としての意味をなしません。
-
- ・・・・
- ・・・・
- 例えば「憎しみ」はその対象がなくなった時に必ずなくなるかといえばそうではありません。ということは、もちろんその対象を憎むわけですが、や
はり自因しているということです。
- ・・・・・・・
- ・・・・・
-
- 無 題 平成12年7月
3日
-
- そもそも「私」というものは他との関係性のなかで「縁起」しているに過ぎません。「私」があるのは因により縁によりあるのであって、因・縁によらず
にある「私」はないのです
-
- 仮設である「私」にとっては虚仮である世間が「現実」であって、いまだかつて我々が満足したことのないそこは、やはり戦いの場であり争いの場
であります。その「戦争」で我々が持つ「武器」が言葉であり、それによって組み立てられた理屈、理論です。あまりに重装備になると動きがとれ
なくなります。
-
-
- 今にある歴史 平成12年6月11日
-
- 西暦で言えば2000年の今月今 日のこの私が救われないならば、阿弥陀さまは私にはおられないものである。
-
- 阿弥陀さまの救いは往生成仏、しかしながら私にあってはお念仏こそが救いであり、それは恵みであって詮議の要などなく、いただくばかりのも
のである。阿弥陀さまが南無阿弥陀仏なされる証道の歴史のなかに摂取され、私はお念仏を恵みとしていただくばかりなのである。
-
- 私が救われるのはお念仏させていただく「今」というときのほかにありません。その一念の度に、五劫兆載永劫のご苦労、十劫正覚の歴史が私に
うまれてくださるのです。お念仏させていただく今に証道の歴史が展開し、だから現生不退であるのです。
-
- とわれるもの(2)平成12年5月23日
-
- 乃至一念に、もはや自力・他力の別はないのではないでしょうか。区別なく一如に帰するのが他力の他力たるお働きです。それでもなお自力だ
他力だと論ずるのが凡夫の凡夫たる所以で、また過去・現在・未来と区別する未来のどこに不退の楽土があり得るのでしょう。
-
-
- 問われるもの平成12年4月26日
-
- あの時代の中であんなことを言っている人が、この時代の中でこんなことを考えている私を知らせて下さる。あの風土の中であんなことを考えた人
が、この風土の中でこんなことを言っている私を知らせて下さる。「感応」というのはそういうことではないでしょうか。
-
- 私が問われ、私を知らせていただくことなくして、時間や空間を隔ててなお「感応」するということはないでしょうし、「感応」することがないのであ
れば恐らく人間の歴史に私の宿業を観ることはない。「穢土」が穢土ですらなくなると、そこにあるのは「地獄」ということになのでしょうか。
-
- 私の他のすべてが私にとって仏(諸仏)であり、諸仏のすべてが阿弥陀仏のみ名を称えておられる。そうして南無阿弥陀仏が現に今ここにあら
われて下さる。それは法爾であるのでしょう。私が問われることによって私の宿業を知らせていただく機のところにすでにはたらいていて下さる宿
縁であったのです。そもそもが、この私一人を救わんがための阿弥陀様のご本願であるのです。
-
-
- 証道の歴史 平成12年4月6日
-
- 想像や仮定を想像・仮定として認識するのでなく、実体や真実としてすでに認識のなかに取り込んでいるに違いない私たちが『「浄土」とは何
か』と問うところに、さまざまな経典の中に「浄土」があのように説かれる所以があったのではないだろうか。
- 人間の歴史は「我(我執・我所執)」の歴史である。仮設された「私」のままに生きる私の現に離れられない我執・我所執の歴史であり、無始以来
「穢土」を流転し続ける私の歴史であり、私の宿業である。それはつまりとりもなおさず如来の大悲の歴史であり、念仏の歴史である。
-
- そのうえの念仏 平成12年3月5日
-
- ご縁の果である「わたし」のほかに「私」を仮設する私が、ご縁の果である「わたし」でしかない事実に目覚めさせていただく。わたしがわたしであ
る、人間が人間であるとはお念仏させていただくということである。
-
- そのものとしてあるのでないものを、私としてあるのでない私が断ずることなど、そもそも出来るはずもないことです。
-
-
- 中中おろかなり 平成12年2月15日
-
- どこまでもお念仏申しながらお念仏に生かされない私である。だからまた、お念仏しかないと思い知らされる。
- 私が称える「南無阿弥陀仏」はお念仏だろうけれど、「南無阿弥陀仏」はまた阿弥陀さまのご本願があらわれて下さる「南無阿弥陀仏」です。有
り難いとは、ここにとどめを刺すに違いありません。
-
-
- 大悲無蓋 平成12年1月25日
-
- 如来の大悲は無蓋であって、その恵みの光に照らされながら救いを求める私たちは疑心あるに等しい。お念仏にであいながら値遇うていない。
念仏してお念仏申していない。
- お念仏は、つまり往生である。だから、ただ、お念仏申させていただく。「救い」が何かは知らないが、すでに救われてある。だから、ただ、お念
仏申させていただく。
-
- 「無生の生、往生」 平成12年1月15日
-
- ご縁によって賜ったいのち(無生)に、仮に我執の我が命を宿らせることが宿業であり、実体として「お浄土」をどこかに仮設するからこそ「ふたた
びの往生(生)」の一念帰命は宿縁である。「このたびことにとげやすし」は回数ではなく、念仏往生を仰有っての「ことに」であり、みたびがみた
びともに「還浄」である。
-
- 「おめでとう」 12月16日
-
- あと半月のいのちのご縁をいただかせてもらうなら、新年だからということで私も「おめでとう」と言うだろう。しかし、ことさらに「幸せ」の意味を追い
求め、その果てに「生まれてこないことである」と考えるままで「おめでとう」と言うのであれば、あまりにも空しい。
-
- お念仏をいただかせてもらい、お念仏に生かされて「踊躍歓喜のこころ」をいただかせてもらうことが「幸せ」だとは言わない。他力ご廻向は「幸、
不幸」という人間の分別ではない。「無生の生」とは「生まれてこないこと」ではない。「生まれてこないこと」が「幸せ」なのではない。あえて言うな
らば、幸も不幸もないのが幸せなのだ。
-
- 称名 11月28日
-
- 疑心といわないまでも不安があるのな ら、吐く息の時に「なまんだぶつ」と称名念仏させていただくことです。そうすれば吸う息があることの不思議に自然と安心もいただけるのではな
いでしょうか。
-
- 疑心あることなければ、乗ったか乗っていないか、乗ったとしたらいつ乗ったのか、お浄土が終点か乗せていただいた電車がお浄土かは問題に
はならないでしょう。称名念仏ということの意味を問い直さなければならないように思います。
-
-
- 救い 11月10日
-
- 阿弥陀さまはご本願の仏であり、我々にはお念仏となって下さる。「私」がお念仏させていただくその時、「私」はただ南無するのであり、実は
- 「私」でなく「機」である。
- 「救い」はご本願にある。「機」でなく「私」である私が「救い」を詮議して、お念仏させていただくのでなく教義を解釈する私がご信心いただけない
まま迷う。
-
-
- 信楽受持甚以難 10月30日
-
- 談義するのでなくいただくばかりで あるのがお念仏です。
-
- 談義すべきは言うまでもなく「私」であるのです。
- 「我が念仏」と思うところにお念仏を談義する「私」がいて、
- その「私」こそを談 義すべき(されるべき)だということに気がつかなくなっているのです。
-
- 無碍光如来 10月11日
-
- 人間の世界は他力ご廻向のお念仏の世界です。「自力」だからいけないということではなく、「自力」で救われようのない私だから自力ではいけないのです。あらゆる「私」の正体を明らかにお見通し(光明無量)であり、あらゆる「私」のいのちが根底に持つ願いを成就なさって下さった(寿命無量)無碍光如来のお働きである「お念仏」に依らなければならないのです。他のところに「安心」はあり得ないではないですか。
-
- 光明無量 10月7日
-
- 光明が無量であるということは、そこにはじめて
すべてが明白に知見されると言うことができます。陰がない、明らかでないもの・ことが一つもないのが
光明無量の世界です。それが「無色界」であってその境界からすればどこまでも真っ白な世界という
ことになり、私たちに分かるように説かれるとき金色に輝く世界であるわけです。
- 光明が無量、壽命が無量といっても、阿弥陀仏にあっては光明が壽命であって無量であるのです。
その境界がお浄土であり、阿弥陀仏のお浄土は極楽です。無明と色とがあらゆる「苦」をつくっている
のですから、すべてが明らかであることほどの「楽」はないはずです。
-
-
- 非行非善 9月28日
-
- 「捨てる」けれども「棄てられない」のがまた私の凡夫である証拠で、捨てたはずのものを知らないうちにまた持ちだしてきてい
たりします。それを本当に「棄てさせて下さる」のがお念仏です。お念仏は数を言うものではありませんが、捨てても捨てても棄
てられない私なのですから、棄てさせて下さるまでには五十六億七千万回ほどもお念仏させていただくことになるのかも知れ
ませんね?
-
-
- (無題) 9月10日
-
- お聖教には三世(あるいは前世など)という言葉がたくさん見られる。「死後の世界はあるのか」と問われた釈尊は「人間の知恵で知ることのできないことを思議してはいけない」と仰有ったとお聞きしている。私はお聖教の三世の意味を知らない。ものを言いたがる私が根拠もなく言ってしまえば、三世は現在の一にして異なる純粋自覚の空なる世界である。確信だけで言ってしまえば、お浄土を穢土にしているのはまぎれもなく「私」である。
-
- さるべき縁 9月1日
-
- 例えばお念仏いただかせてもらうと病気も有り難いものになって生かされてある今が歓びになるというようなことは、そういうことは私も言っていることなのですが、生死を分断した概念が言わせる戯言ではないか。実の生も実の死もないということを忘れて「実に生きている」と思いこみたがるものへの迎合ではないかということです。
- 実には不生不死であり、縁に生まれ縁に死する。あるのは縁であり、だから実にはただ一つお念仏があるのであって他に実に生まれ実に死するものなどないということが仏法であって、例えば「歓喜光」を説くのは仏法だけれど「生まれた意義」・「生きる喜び」は畢竟して人情ではないか。自信教人信は仏法のお働きであって決して人間が主体としてできることではない、それを意図するなどというのは傲りに他ならないのではないか。根拠もなく、ふと思うのです。
- 人間は個々の経験などによってお念仏をも自分なりに解釈しがちです。いわばお念仏の私物化の素地がすでにあるわけで、普通にお聞きしているのではむしろ自分の念仏を作ることが多く、仏法をお聞かせいただくということは私的な所有がなくなることでもあるはずなのに、仏法そのものを私有化しています。仏法に私が同化されるということが仏法を私に同化させることと同じでない、この自明の理は、しかし現実には非常に曖昧になっているように思います。そしてその原因は意識せずしてか「我」の実在を仮定しているところにあると思います。
-
- いそぎ仏になりて 8月19日
-
- 「助ける」ということは難しいことのようですが、「助けてもらう」のとどち
らがより難しいのでしょうか。また、「助ける」・「助けてもらう」というのと
「助かる」というのとはどのように違うのでしょうか。
-
- 「助ける」人も「助けてもらう」人も実は濁流にのまれている、濁流の
中にあって「助かる」道はお念仏しかないと思うのです。注目しなけ ればならないのは、抄出した歎異抄第四節に下線を付けた「べき」
で、実に意味深い「べき」であると思います。
-
-
- 遺伝 8月1日
-
- 私の我執・我所執がいかに頑なであろうとも、私に遺伝した「お念
仏」が私の行となり、
- 行は信に相続し、信はまた行に相続します。 「お念仏」は「我」に働くとき極めて動的です。
- 私の我執・我所執がいかに頑なであろうとも、私に遺伝した「お念
仏」が私の行となり、行は信に相続し、信はまた行に相続します。 「お念仏」は「我」に働くとき極めて動的です。
-
- 無生 7月17日
-
- 生きていると軽々しく口に言わせる前にいのちの歴史に思いを致せ
ば、
- 知らずして真を求め実を求める我が身に出逢わせてもいただけ
る。
-
- 何故と問うのは生きていることをではなく生かされてあることをである
と知り、
- 如来の願いに値遇えば我が身は問うのでなく問われる。
-
- 構造 7月4日
-
- 自縛の構造から逃れようとしてはいけない。また一つ自分を縛ることになる。
- そもそも逃れられるはずがないのだ。
- 皮肉なことかも知れないが、実は私たち人間を「真実」に目覚めさせてくれるのも、
- 結果的に人間が作り上げたその「構造」なのだ。
-
- 本来の解釈からははずれるのだろうが、自由という言葉がうまく説明してくれるかも知れない。
- 「みずから」を由とするのでなく、「おのずから」を由とすればよい。
- 「おのずから」が由である智慧をいただけばよい。
- 人間は人間を、自分は自分を縛るものだと気づかせてもらえばよい。
-
- 迷い 6月22日
-
- 我々の「迷い」・「不安」は、しかし本当は「生死」ではないのか。さまざまな迷いに
覆い隠されて、根本のところで「生死」に迷い、安心がないままでいる我が姿に
気がつかないのではないか。
-
-
- 奇妙な反省文 5月26日
-
- 何ともお恥ずかしい限りなのは、この文脈からお分かりいただけることでしょう。ま
ったく慚愧に耐えないのですが、私は鉄面皮でもあるようで時代おくれなままこ
のHPを続けたいと思っています。
- 法制度はむしろ現実を追いかけることが多いのです。いかなる現実が私たちの最先端の現実なの
でしょう。
-
- 現在 5月4日
-
- 「我」は過去・未来を実体として分かち造り、その間に現在を仮設します。過去と未来という二つの輪
転機に同時にかけられる現在という一枚の紙に印刷されるのが生死です。
- その一枚の紙を私が見据えるとき、分からないと私が言います。事は深刻かつ重大です。しかし同時
にどこか滑稽ではありませんか。分からなくしていているのも私、分からないことにまたとらわれている
のも私です。
-
- 実に生じたと見ずる他にない凡夫の 廻心とは、「南無阿弥陀仏」の世界にありながらそれを離れていた心が「南無阿弥陀仏」の故郷に帰
るということです。
- 私たちの側から言えばいまにして出逢わせていただいたお念仏と故郷であるお念仏と、時にすれば
二つの時であっても、体は一つのお念仏です。体が一つであれば、いわばお念仏の側から言えば、
常に現在という一時です。
-
-
- お念仏 4月26日
- 生活と共に信仰があると言うのは私が念仏す ると思っている証左なのでした。
(無題) 3月13日
「ご縁」いただいて、ただ一つこれをこそほしがらねばならないものを「お聞かせ」
いただいたが、棚の上に上げておく。自分のものにしない。ほしくいないと言っ
て、今は要らないといって、つまり捨てておく。捨てておくものだから自分のもの
でない、自分のものでないから自分勝手に例えば「未来」に「往生」を仮想する。
お聞かせ 2月28日
私がいただかねばならない。もとより「私」とは我執ばかりの身ですから
「いただいたと思うのはいただいていない」ということです。ですから、繰り返し「お
聞かせ」を「いただく」のです。
最も希有であると言えるはずの理由によって私たちに伝えられた「お念仏」の教
えは、親鸞聖人による釈尊の教えの「お聞かせ」に他なりません。聖人のお言葉
でお聞かせをいただける、いただかせていただける「お聞かせ」をいただくので
す。
自縄 12月14日
- 縄で我が身を縛られてもがきにもがいて、しかし、少しできた隙間を「我」でうめるのが私なのだ。
我が身 11月29日
- 智慧の眼に見える真実の我が身を知見する、我が身の真実に気づかせていただく。真実はそれに触れるものを真
実化する。唯一の真実であるお念仏の働きである。
- 立所 11月10日
-
- 真っ白な球体を渡されて、例えばこれが地球で、あなたのいる位置を示せといわれたとする。
- さて、どう応えるのか。
-
- 心の向かうところ 11月2日
-
- 私はお念仏に出会わせていただきたい。「仏教」に出会えなくてもよい。親鸞聖人が明らかにして下さったお念仏に
出会わせていただきたい。
-
- 不可説 9月22日
-
- 私たちは私を照らして下さる大悲というものが私の外にだけある、外にだけあって私を照らして下さるとばかり思い
がちなのではないでしょうか。
- すでに私の裡にお念仏があります。また、新たに私にお念仏がうまれて下さいます。お念仏は因でもあり果でもあ
り、さらには縁でもある。三様にして一体である。
-
- 個性 9月22日
-
- お参りの人の中にお念仏の声があまり聞かれなかったと、先の御遠忌に行かれた方がいま振り返って仰有っていま
す。お参りになったその時には仰有っていなかったことなのです。
-
- 癒し 9月 6日
- お念仏の外にもう何もないこの身が「癒される」ことはないのです。癒しということは大変重要なことであると思いま
す。ますます発展進歩が求められることです。しかし、それこそが仏法の世界であるとなると大変な間違いだと思いま
す。
(無題) 8月14日
お盆です。様々な儀式・行事が仏教の名の下に行われるようです。否定する気はありませんが、それらが人間の自
己計量によって作り上げられた「救い」を基にした形式ではないかという気はします。
この時期の普段は見かけない様々な光景はすべてお念仏申し「ながら」の私の、捨てきれない妄念、しかもその多く
が「救い」を願う心の起こす妄念の「形」である。
「形」はそれを産んだ人間の「我が計らい」の心、他の誰かのではない私の心である。私の中の妄念というつかみ所
のないものの姿を見せていただいて、「お念仏のみが真実である」と、またいただかせてもらえます。
ただ称える 7月31日
- 「今現在に内なる光に輝いて居らないまことに愚かしい姿であります。」と、これは前回の終わりの一文です。ここにも
私を惑わせる私があります。
- 私も一応ともうしましょうか反省はするのです、愚かな私であると。しかし、そこに同時に「反省する私」をかわいがる私
がおり、時には誉める私がおります。
-
- 輝く 7月7日
- 私たちが真に輝くのは「内なる光」に依ってであります。なるほど外にある光によって輝くこともありましょうが、その輝
きは光のあたらぬ後ろ側にはないのであります。
-
- 有量 6月14日
- 様々な意味で、人は信じることによって生かされています。無意識的であっても、例えば「家族」があるのは「血縁」
を信じるところであり、「日常性」を信じるところに「生活」がある。(むしろ逆だと言えることも多いのでしょうが。)
- さて、いったい何を信じるところに「私」があり、「自分」があるのでしょう。もともと「私」・「自分」というものは「他」との
区別であったのでしょうが、ひどく立派な「私」・「自分」というものを作り出しているように思います
-
- 光と闇 5月16日
- 真っ暗な闇の中で、わたしはわたし自身の「陰」を見ることができるか。光のないところで、わたしはわたし自身の
「陰」を知ることができるのか。
-
- 深い闇 4月26日
- 「例えば段ボール箱いっぱいのお金と段ボール箱いっぱいのお菓子のどちらかをあげると言ったとして、お菓子の
方をほしがるのは何歳くらいまでなのでしょう」。
- こういう類の問いには大きな前提があるわけですが、それを抜きにして問いかけ、それを抜きにしてつい答えてしま
うということは、如何に「日常性」の持つ力が大きいかを示しているといえるでしょう。
-
- ただ一つ 4月8日
- 実はわたしたちの日常に「真実」はいくつもあるのでしょう。ひとつの事実を人はそれぞれに解釈をして、それぞれ
の「真実」を作り上げるのでしょう。「愛」こそが真実なのだ、「誠意」こそが真実なのだと。
- しかし、自分の作り上げた「真実」をいかに論理でかため言葉でかざっても、畢竟ずるに「そらごと」であります。逆説
すれば論理・言辞を要するゆえに「そらごと」は「そらごと」であり、真実ではありません。
-
- 離れる 3月19日
- 「バラバラ」という言葉は「奇異」であることを表す言葉ではないのでしょうか。少なくとも聞いて快く感じる種類の言葉
ではないと私は思います。
- 本来一つであるもの、一体であるもの、統制が取れているものが本来の姿を離れて分離分散した状態を指し、それ
が奇異であることをある種の不快感をもって表現したものであるように思います。
-
- 他23話 随筆かも知れない索引
- 1.Heavyってどういうこと? 掲載日不明 2.じねんと読むらしいです 掲載日不明
3.蛍 掲載日不明 4.亀 掲載日不明 5.今回は関西弁で 掲載日不明
6.京都の五山の送り火は 1997年8月10日 7.転んだら立ち上がればいい 1997年8月20日
8.ベクトルでもない! 1997年9月4日 9.日本教? 1997年9月13日
10.仮想現実 1997年9月25日 11.闇を見る眼原題:時代おくれの芸術の秋 1997年10月11日
12.無智原題:転載の天才? 1997年10月22日 13.ばあちゃんの避難訓練 1997年11月1日
14.奇妙な酔っぱらい(第二稿) 1997年11月22日 15.大海 1997年12月8日
16.極点に立つべし 1997年12月24日 17.悪人たる所以 1998年1月1日
18.掌を合わす 1998年1月11日 19.罰があたった 1998年1月20日
20.穴の中 1998年1月29日 21.念ずる方向 1998年2月7日
22.梅の花が 1998年2月23日 23.意味の奥底
-
-
- 相対の世界で具体的なものは
- 実にはすべてが
- そらごと たわごと
-
- ただ お念仏のみがまことです
-
- なむあみだぶつ
戻 る