仏説阿弥陀経ノート
利井 明弘 篇
第一篇 序 説
第一章 仏説阿弥陀経の翻訳(訳伝)
阿弥陀経は「スカバティ・ビューハー」(楽有荘厳)と題される梵文の経典が早くから発見されています。漢訳では、前後三回翻訳されていて、時代順に挙げると次の通りです。
1 『仏説阿弥陀経』一巻・存・亀茲 鳩摩羅什 ・姚秦
2 『仏説小無量寿経』一巻 ・欠・天竺 求那跋陀羅・劉宋
3 『仏説称讃浄土仏摂受経』一巻・存・唐 玄 弉・大唐
まず第一番目の鳩摩羅什の訳したものは、最もひろく読まれているもので、浄土真宗の正依の経典として用いられているのも、この鳩摩羅什の翻訳した『仏説阿弥陀経』であります。翻訳された時代は中国の姚秦でありますが、詳しく云えば西紀四〇二年にあたります。この訳本の特徴は非常に流麗で、読誦する者は宗教的情感の世界に知らぬまに引き入れられるといわれてきました。
次の求那跋陀羅の訳したものは現存しませんが、中国の経典目録の二三にその題名が出ています。また、本文の一部分が善導大師の著述に引用されているのでその実在したことが知られています。
この『仏説小無量寿経』は四枚の紙に収まっているので、四紙阿弥陀経と呼びます。ちなみに鳩摩羅什の訳本は五紙であり、あとの玄奘三蔵の訳本は十紙にわたるので、『十紙阿弥陀経』というように呼ぶこともあります。
最後の玄奘訳は鳩摩羅什に遅れること約四半世紀の西紀六五〇年に翻訳されたもので、四紙に対して十紙もあることでも分かるように、その内容は鳩摩羅什のものより詳しく説かれています。鳩摩羅什の訳では六方の諸仏の証誠が説かれているところが、玄奘の訳では十方になっています。このことからも、原本がいろいろあったことが伺えます。
この他に、襄陽の石刻本と呼ばれるものがあって、大部分は鳩摩羅什訳と同じですが、一部分大切なところに注目すべき言葉が挿入されているのです。福岡県の宗像神社にある石刻小経はこの襄陽の石刻本と同文であると伝えられています。
この他に、チベット訳、英訳、日本語訳、とその訳本の多いことは一切経の中でも随一であると云われています。
第二章 この経が説かれた意図(興由)
興由とは、この経の興ってきた理由の意で、どのような意図をもってこの経が説かれたのかを伺うものです。この興由を論ずるのに、先哲方は色々と説を挙げられていますが、今は労謙院善譲師が五義を上げて説かれているものによって伺うことにします。
一、果遂の願功を顕示する為
これは『大経』の二十願に望めていう場合で、この果遂の願と呼ばれる第二十願をより鮮明にするために、この『小経』が説かれていると伺うのです。
まず始門、に約しますれば、諸行の機を真門に転入せしめる為に説かれていると味わいます。親鸞聖人が『化巻』本<五〇四『原典版』>に「阿弥陀如来はもと果遂のちかひ【果遂の願といふは二十の願なり】をおこして諸有の群生海を悲引したまふ」と云われているように、阿弥陀如来がこの第二十願を起された真意は要門の機を真門に入れしむるためなのです。また釈尊についても、『同』<五〇四>に「しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して十方濁世を勧化したまふ」とあり、『和讃』にも「果遂の願によりてこそ 釈迦は善本徳本を 弥陀経にあらはして 一乗の機をすゝめしむ」と讃じられています。これが『小経』の顕説の立場であります。
次に終門に約してますと、真門の自力念仏より自然に利他の信海に入らしめるの意があって、このことを『和讃』に宗祖は「定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ おしへざれども自然に 真如の門に転入す」といわれています。
このように始門と終門の二意がありますが、二十願の当面は要門より真門に入らしめる、即ち、従要入真の始門にあるのです。しかし、その深意は弘願に入らしめるにあるのです。そこの所を巧みに説かれたものが今経なのであります。
十九願を誓って、遂に十九願を捨てしめるのが『観経』であり、二十願を開設して遂に二十願を捨てしめるのが『小経』なのです。
二、廃立の極意を顕わさんが為
これは『観経』の法に望めて伺う場合であります。一宗の綱要は弥陀にあっては選択と言い、釈迦にあっては廃立といゝます。即ち、諸行を捨てゝ念仏を立てるのです。このことを今経には「不可以少善根」等と説かれています。中国の慈恩等の諸師は廃立の釈には至ってはおらず、これをはっきりと受け取られるのは法然上人であり、『観経』に望んで明確に廃立するものが今経の意とされているのです。
このことは『漢語灯』の小経釈にある通りであります。
三、機法の真実を合説せん為
これは『大経』の法の真実、『観経』の機の真実に望めていう立場であります。『口伝鈔』に「大無量寿経は法の真実なるところをときあらはして対機はみな権機なり。観無量寿経は機の真実なるところをときあらはせり、これすなはち実機なり。いはゆる五障の女人韋提をもて対機としてとほく末世の女人悪人にひとしむるなり。小阿弥陀経はさきの機法の真実をあらはす。二経を合説して不可以少善根福徳因縁得生彼国とらとける。無上大利の名号を一日七日の執持名号にむすびとゞめてこゝを証誠する諸仏の実語を顕説せり」とあります。又、『和讃』には「五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には〔機実〕 弥陀の名号あたへてぞ〔法実〕 恆沙の諸仏すゝめたる」とあって、合説証誠の祖意がこゝにあらわれているのです。
四、一代の終帰を明らかにせん為
これは釈尊一代の説教に望めていう時であります。 『法事讃』<六五三>に「世尊法を説きたまふこと、時将に了りなむとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ」とあり、『口伝鈔』<九五九>に「一代の説教むしろをまきし肝要」とあります。化前一代の諸善万行を浄土に振り向け、『観経』の定散二善となり、その定散諸善が嫌貶せられて持名一行に慇懃に付属されます。こゝに一代の諸説の終帰は、今経であることは明らかになります。
こゝまでの四義は、それぞれ『大経』二十願・『観経』の定散二善に対望し、『大』『観』の機法の二真実に、一代諸教に対望して、今経の興由を伺ってきました。そこで最後の第五義は直接今経に就いてその興由を総じて伺うのであります。
五、極難信法を信受せしめん為
今経に「一切世間のために、この難信の法をとくなり、これを甚難とす」と説かれています。この難信について『化巻』<五〇一>には「彰といふは、真実難信の法をあらはす」等と言われてあります。又『唯信文意』<八〇五>には「小経には極難信法とみえたり」とあります。この難信たる所以は、法の尊高によるのであります。しかし同様に難信の義は『大経』に難中之難と説かれますが、その難信の相が今経に説かれるのであります。諸仏証誠がそれであります。『和讃』に「真実信心うることは 末法濁世にまれなりと 恆沙の諸仏の証誠に えがたきほどをあらはせり」と示されています。若し難信でなければどうして恆沙の諸仏の証誠が必要でありましょうか。難信の故に証誠されるのであります。そしてそれが一仏でなく恆沙の仏であり、一方ならず六法というのですから、その極難信の相を知るべきでしょう。このように難信の相を示すのは、この法を信受せしめんが爲であります。こゝに上来の四義が此の一由に帰することが判ります。経文に一経を総結して「一切世間のために、この難信の法をとくなり、これを甚難とす」と説かれてあります。これによってこの一経の興由がこの第五
義に帰することを知るべきでありましょう。
☆ 三部経の味わい方
このような意図で説かれた『小経』を解釈するのに、宗祖は独特の味わい方をされます。浄土真宗で、『観経』と『小経』の説相を解釈するのに用いる名目に顕彰隠密という言葉があります。これを隠顕といいますが、これは顕は顕説、隠は隠彰を略したものです。顕説とは顕著に説かれている教義で、『観経』では定散諸行往生すなわち要門の教義であり、『小経』では自力念仏往生、すなわち真門の教義を説いてあります。隠彰とは隠微にあらわされている真実義をいい、両経ともに他力念仏往生の法すなわち弘願法を説いてあるのです。
このように浄土真宗の所依の経典である『観経』と『小経』を頂くのに、二通りの味わい方があるのです。ちなみに『大経』は真実の教えを説く経で隠顕はありません。 そこで、二通りの味わい方ですが、三経一致の立場であり、今一つは三経差別の立場と云われているものであります。これを図示しますと次のようになります。
三経一致
『大経』………法の真実を顕はす。
『観経』………機の真実を顕はす。
『小経』………機法合説証誠を顕す。
三経差別
『大経』………弘願・他力念仏を説く………正定聚の機
『観経』………要門・諸行往生を説く………邪定聚の機
『小経』………真門・自力念仏を説く………不定聚の機
このような二つの立場があることを知って、『仏説阿弥陀経』を今から伺っていくことにします。
第三章 題 号
『仏説阿弥陀経』
☆ 句 解
◎仏説=仏とあるのは、正しくお釈迦さまのことですが、ここですぐさま隠顕があります。顕説の要門を説かれたお釈迦さまとすれば、随他意の 説法となります。この時は真門の教主ということになります。しかし、隠彰からいえば、舎利弗の問を待たず、自ら舎利弗と三十六回も呼びかけて この経は説かれています。これは全く随自意の説法と云わねばなりません。そうなると『大経』をお説きになったお釈迦さまと同じく、阿弥陀さまと 融け合われた、(このお姿を、融本の応身と云います)出世本懐を説かれるお釈迦さまであります。表には要門をお説きになっているお釈迦さま でありますが、その底を流れる真意は、「難信の法」に引き入れるお釈迦さまでありますから、この仏とは、阿弥陀さまと融け合われた他力念仏を 説かれるお釈迦さまと云わねばなりません。◎阿弥陀=梵語のアミータをそのまゝ音訳したのがこの阿弥陀の語であります。『仏説無量寿経』や 『仏説観無量寿経』は、このアミータという梵語を漢訳してありますが、この『小経』の名義段には、光明無量、寿命無量の『大経』に誓われた十 二・十三願によって成就された阿弥陀仏のさまのことであります。元の言葉の音訳は、その全体の功徳を含みますが、漢訳すれば親しく意味は 頂けますが、限定された表現になるきらいがあります。そこでこの訳者は一切衆生を救済する浄土のご主人である最高の能力を表現する名称を そのまゝ経題として挙げられたものでありましょう。
☆ 要 義
このお経の正式の呼び名は、『仏説阿弥陀経』と云います。そして『仏説無量寿経』を『大無量寿経』というのに対して『小無量寿経』とも『小 経』と呼ぶのは、既にこのノートで使っている通りですが、『大無量寿経』を大本というのに対して、小本と呼ぶこともあります。
又、このお経の本文に「不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経」(称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経)とこのお経の 題号を呼ばれているところを見れば、このお経の題号の意味は、詳しく云えば「阿弥陀仏の不可思議功徳の名号が称讃せられ、この名号を聞 信するものは、一切諸仏に護念せられて、勝れた利益を蒙ることが説かれてあるお経」ということになりましょう。玄奘が翻訳した題号は、『仏説称 讃浄土仏摂受経』でしたが、この本文中の題号と共に味わうべきでありましょう。
また、最初に述べたように梵本の「スカバティ・ビューハー」は「楽有荘厳」と翻訳されますが、現代語に訳すれば「無量の楽しいお飾りのある 世界」とでも云いますか、阿弥陀さまの国土を顕はす名前になっています。そして、この『仏説阿弥陀経』という題号では、その極楽世界の主人 たる阿弥陀仏をもって題してあります。このような国土のお荘厳のことを依報または器世間と云い、その極楽のご主人である阿弥陀さまや、その他 の住人を含めて正報または衆生世間と云います。今、梵本は依報よりこのお経の題を取り、漢訳のこの鳩摩羅什の翻訳した題号は、正報の阿 弥陀仏を題にしているのです。玄奘訳は、この浄土と仏の二つとも題号に入れてあります。
第四章 翻 訳 者
『姚秦三蔵鳩摩羅什奉詔訳』
☆ 句 解
◎姚秦=姚秦とは中国の時代を示す名前です。中国の前秦の王であった符堅は亀茲国に有名な鳩摩羅什という三蔵のいることを知り、建元 十八(三八二)に将軍である呂光に亀茲国を征伐させ、亀茲の王室を滅ぼして鳩摩羅什をとりこにします。ところが符堅が中国の国境まで帰って 見ると、彼を派遣した符堅が姚萇に殺されて前秦の亡んだことを知ります。そこで呂将軍は国境に近い涼州を平定して後涼国を建て、鳩摩羅什 も共に十六、七年間もの間こゝに滞在します。その後、後秦の姚興が弘始三年(四〇一)に後涼国を討ち滅ぼし鳩摩羅什を長安に迎えるので す。姚秦とは、この姚氏の秦の時代を指しているのです。◎三蔵=仏教聖典の総称で、釈尊の教説を集めた経蔵、釈尊が制定された生活規 則を集めた律蔵、教説を組織体系づけて論述した論蔵のことで、この経・律・論の三蔵に通じ、経典の翻訳に従事する僧のことも又、三蔵法師 もしくは○○三蔵と呼びます。◎鳩摩羅什=亀茲国に生まれ七才で出家、九才の時に母と共にインドのカシミールに遊学し、槃頭達多に小乗 仏教を学び、十二才の時に亀茲国に帰る途中カシュガルに一年ほど立ち寄り、亀茲国に帰って、大乗仏教を講じました。その名声は、最初の 師である槃頭達多が亀茲国にやってきて鳩摩羅什の教えを受けたということで広く西域や中国にまで及んだのです。その後、呂将軍に連れられ て中国に行ったことは先に述べましたが、長安に入った鳩摩羅什を姚興国王は国師の礼をもって迎え、経論の翻訳をさせたのです。この『仏説 阿弥陀経』は、弘始四年二月に翻訳されたとありますから彼の最初期の翻訳といえます。已後十余年間に翻訳した経典が三十 五部二百九十 四卷とも(『出三蔵記集』)、七十四部三百八十四卷 (『開元釈経録』)とも云われています。鳩摩羅什の生年と没年には異説があって、(三四 四〜四一三)年説と(三五〇〜四〇九)年説が伝えられています。◎奉詔訳=国王の姚興の詔勅を受けて翻訳したという意味であります。
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