今年は新盆 「人が亡くなった時に流す涙って」
(99. 8.18現在 ご投稿件数 2件)
問いかけのご投稿
_subject=今年は新盆。
message=
人が亡くなった時に流す涙って、その人が居なくなった事に因る自分に対する不利益を案じて流すものなのかなあ・・・。
name=ひつじ
「今年は新盆」との件名に、2行の問いかけ・・ひつじさんの流しておられる
でしょう尊い尊い涙を思っています。
> 人が亡くなった時に流す涙って、その人が居なくなった事に因る自分に対する不利益を案じて流すものなのかなあ・・・。 そうかなぁ・・それだけじゃないと思います。 といいつつ、実はいつも「自分の思いだけを追いかけている私」ということを バカの一つ覚えみたいに繰り返しているのがこのHPなんですね。 悲しみや苦しみは「自分が、自分が、と、自分の思いだけを追いかけ回している私を教えてくれる」「自分が自分がと、自分の願いだけを追いかけ回している私に、懸けられた願いを教えて下さる」、そのことだけを書いているのがこのHPです。 なのに、 > 人が亡くなった時に流す涙って、その人が居なくなった事に因る自分に対する不利益を案じて流すものなのかなあ・・・。 との、ひつじさんの問いかけに、私は「そうかなぁ・・それだけじゃないと思います。」と勝手な思いを言ってます。 仏教は我執を教え、自我の底にある本当の自己なるものとの出会いを教えて下さるのですが、自分という凡夫にはその我執に気付くことが出来ないと宣言された方が親鸞聖人なんですね・・だから、亡くなった人を思う涙が実は自分を思う 涙なんだと・・は人間には気づけない。。と。 それは仏が気付かしめて下さるもの、仏の心なのだと・・そういうふうに教えて下さるのが親鸞聖人です。 > 人が亡くなった時に流す涙って、その人が居なくなった事に因る自分に対する不利益を案じて流すものなのかなあ・・・。 と思わせていただいてるんだ・・と、自我の心に気付かしめていただいてる んだと・・そういうふうに私はお教えいただいてます。 だから、ひつじさんをそんなふうに思わせて下さるのが、如来の働きなら、 その仏とは、あなたにそんなふうに思わせて下さるその亡きお方の「働き」というか「おかげさま」なんですね。 亡きお方のおかげさまがそう思わせて下さるんですよね。 私たちは自我をすてることが出来ませんが、私たちが自我いっぱいに生きて いることをお教え下さる、一番大切なことをお教え下さる仏様に、ひつじさんは 尊い涙を流しておいでなんだと私は、ひつじさんの涙を思っています。 ついでに、もう一つ言わせていただくと、悲しみや苦しみが大嫌いでその上、人一倍臆病で怠け者の私が、親鸞聖人のみ教えに出会わされ、そのままの私。。悲しみや苦しみが大嫌いなままでそれらを引き受けさせていただける道を賜った・・その喜びをお伝えできたらと、このHPの開設を思い立ちました。 「生かされて生きているのに自分が、自分の力で生きていると疑わず、自分の願いをかけることにかかり果てて、懸けられた願いに気付くことすら忘れている」と教えられたとき、そうだそのとおりだと思い、自分の思いばかりを追いかけずに、懸けられた願いに気付こう、気付かなければと思った私です、気付いて、自分の願いばかり追いかけている自分を変えなければと思ったものです。けれども、親鸞聖人は気付くことすら自分の力で出来るのではないとお教え下さいます。それが他力信です。 > 人が亡くなった時に流す涙って、その人が居なくなった事に因る自分に対する不利益を案じて流すものなのかなあ・・・。 ひつじさんのこの問いかけに、誤解が絶えない「他力」という言葉をふっと思い、こんなことまで書かせていただき、ややこしいだけで、なんのお返事にもならないかもしれませんが、お許し下さいね。 亡くなった人を思う涙が実は自分を思う 涙なんだと・・は人間には気づけない。 それは仏が気付かしめて下さるもの、仏の心なのだといただいてます。 私の流す涙はまた、亡きお方のおかげさまが流させて下さる尊い涙ではないでしょうか。 新盆のお悲しみの中をご投稿本当にありがとうございました。 この悲しみの中で亡きお方はわたしどもに大切なことをいっぱいいっぱい、 その御身に引き替えてお教え下さっておられるんだと思います。 お盆には亡き方が帰ってきて下さると言われますが、ほんとは亡き方がお教え下さるお声はいつでもどこでも聞かせていただけるんですね。でも、自分のことで精一杯の私たちにはなかなか聞かせていただけません。ですから、お墓の前やお仏壇の前で聞かせていただけるのは、私たちのほうこそ、亡き人の「おかげさま」でお墓の前、お仏壇の前にひきだしていただいたのです。 亡き人の為にお墓参りをしているつもりだったら、それは違います。亡き人がお墓参りをさせてくださったのです。そして大切な大切なことを忘れている私をお教え下さってるのではないでしょうか。 |
ご投稿2
_subject=...流す涙って
message=
僕と兄貴は親父が始めた商売を継いでいます。
親父がまだ元気だった頃、僕は「親父にもしものことがあったらこの仕事、どうなるかなあ」なんて不安に思っていました。それが現実のものになったとき、僕たち兄弟の心には、そのことによってもたらされる不利益のことを考える余裕はありませんでした。 30面下げた立派な中年なのに、心の中は子供に戻ってしまっていました。思い出すのは子供の頃いろんな所につれていった想い出、泳ぎ方や、自転車の乗り方、キャッチボール、勉強を教えてもらったこと。 大好きだった、そして尊敬していたお父ちゃんが死んでしまった。そのことで僕たちは一気に三十年タイムトリップしてしまったのです。 親父が病院で息を引き取ったとき、子供のように涙が出ました。 体が大きくて、力が強くてやさしくて頼りがいがあった父がこんなにあっけなく死んでしまった。 いつも仕事で一緒にいたから、ホントの意味で親から独立していなかったからかも知れません。親元から遠く離れた土地で親の訃報を聞く人よりもかえってつらかったのかも知れません。 確かに社長が突然いなくなったのだから後に残された僕たちは大変な思いをしたことも確かですが、その大変さと「悲しさ」、「涙」とは別物です。関係ない。 親父が死んだあと、一月とちょっとした頃、ようやく仕事も順調に動き始めた頃、息子が死にました。 親父には悪いけど、親父が死んだときの何十倍も悲しくて、やりきれなくて、死にたいほどでした。 親はいつかはいなくなる。親父が死んだらそのあとは俺たちがあとを継ぐ。大変でもやって行かなきゃって覚悟が常日頃から心のどこかに持っていたから。 子供の場合はそうはいかない。守ってあげなきゃいけない息子が僕よりも先にいってしまった。 僕は泣き虫なので、ぼろぼろ涙を流して毎日を送りました。不利益がどうこうより、この世界そのものが無くなってしまえとさえ思ったほどですから。 涙には不利益を感じるどこかやましい自分が表現されている、残された身にとってこう考えることもわからないではないですが、このさき大変なのは自分が何とかしていけば良いこと。 どうにもならなくなったらそのとき考えましょ。 大切な人が死んでしまったことでいろいろな意味での不利益があることも事実です。 死んだ人は精神的な助けにはなっても物理的に助けてはくれない。悲しい上に生活の苦しみがのしかかってくるとさらにつらい思いをすることでしょう。周りの人の態度からつらくなることもあるかも知れない。でもそのことで死んだ人に恨み言を言っても始まらない。 悲しいのは、そして涙が自然に出てしまうのはその人のことを思う心が強いから。 その人と過ごした時間がそれだけ幸せだったから。 アカの他人が死んでも泣かないでしょう?たとえばアカの他人が死んで、そのあおりをくらって自分の生活が苦しくなったとき、あなたは泣きますか?泣き言は言うかも知れませんが、悲しくて涙が出ますか? そんなことで悩むのはやめましょう。 あなたは悲しさとつきあって行くだけで充分大変なのだから。 あなたの流す涙は純粋に死んだ人を思って出て来るものです。 生きていく上で(生存し続けていくという意味で)の大変さから流れるものでは無いと思います。 不利益には立ち向かっていきましょう。 そして亡くなってしまった大切な人のためには出し惜しみなく涙を流しましょう。 それで良いと思います。 涙と不利益は「関係無い」!! |
name=まこっちゃん
subject=人が亡くなったときの涙
message=
私は32歳の大のおとなですが、今だに私が16歳の時に死んだ母の夢を見て涙いっぱいで深夜目が覚めることがよくあります。今日もそれで目が覚めて、深夜のインターネットでこのページを見つけました。センチメンタリズムは嫌いな性分なのですが、「掛けられた願い」のお話を読んで、図らずもひとしきり思い切り泣くことができました。今、妙にすっきりした気分です。ありがたいことです。
思うに、亡くなった人のために泣くというのは、愛する人のためにしてあげたかったことが今ではできないという無力感と、当然受けるべき愛情の対価を受けられずに逝ってしまった人を不憫に思う気持ちから来るのでしょう。確かに、これらは、こちらからの一方的な「願い」なのですね。あちらから掛けられた願いを思えば、悲しみよりも感謝の気持ちが強くなってくるのが実感でききてきました。 私は今、ある意味で人生の岐路にあって、決断しなければならないことが幾つもあります。死んだ母の「願い」を決断の指針とすることができるような気がしています。「なんのこっちゃ」とお思いでしょうが、このページにずいぶんと助けられました。ありがとうございました。 ここでするべき質問ではないと思うのですが、阿弥陀仏の他力を説く浄土系の仏教と、イエスをひたすら信じるキリスト教はどのように違うのか、という質問を日本文化を研究しているアメリカ人の友人から受けて困ったことがあります。善人と悪人を明確に裁いてしまうキリスト教と、万物に哀れみをかける阿弥陀さんとの違いかな、とも思うのですが、仏教にも地獄はありますし。浄土真宗は地獄を考えないのでしょうか。少なくとも、他力という一点ではよく似ているのは間違いないと思いますが。 |
name=ひろ
ご投稿をありがとうございました。心より御礼申し上げます
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