弔いのタブー

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問いかけのご投稿

_subject=弔いのタブー

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 父、息子、義母、義父とおくって来ました。
そのたび親戚やご近所の方たちからそれはこうするんだ、とかそんなことするものじゃないなんていう決まり事やタブーを教わってきました。
葬儀や四十九日などの儀式の段取りや仏壇の中におくものの配置、仏壇の向きなどは、何となくそんなものなのだろうと納得もできるのですが 、中には得心のいかないものもあります。
理由を聞くと「そういうことはするもんじゃないんだ」とか「前にそういう風にしていたら家族が病気になった家がある」などとどうも納得の行かない理由ばかりでした。
でもその方たちに眼をつり上げて真剣に言われると得心行かないまでも、まあ年長者がそういうのだからそれに従った方が無難かな、くらいに思い、素直に従うようにしています。
 
 たとえば、
仏壇に生臭ものを供えてはいけない、
死に顔の写真を撮ると成仏できない、
一つの仏壇に父方、母方両方の位牌をおいて拝んだり、一軒の家の中に二つ仏壇があるの良くない、
同じ敷地内にふたつのお墓をまとめて「両家の墓」というような墓を作ってはならない、
遺骨をいつまでも家においておいてはならない、
閏年に墓石を造るものじゃない、などなど。
  
他にもいろいろと言われたように思います。
これらの事に「どうしてですか?」と尋ねて明確な答えをもらえた試しがありません。
和尚に聞いたら 「あんたがそれで良いと思うならそれで良いんだよ」と言われました。
なるほどそうなのかと も思いましたがどうも納得行くところまでは行きません。
  
  
 また田舎に住み、日頃のお墓のお世話や、法事の用意をする者にとっては年に一二回 訪れて、お墓や仏壇のまつり方にあれやこれや異を唱える遠くの血縁には閉口させられます。
 まあ良いや、と思えることもあればなかには素直に従えない不合理なことや残された家族の気持ちを踏みにじるようなものもあるようです。
  
 どうなのでしょう?宗派によって細かい考え方に違いがあるとは思いますが、幼くして 逝った息子の祭壇に彼の好物だった”なまぐさもの”、たとえばアイスクリームを供えてあげたら 家のものになにか悪い事が起きたりするのでしょうか。
  
普段の寝顔と変わらないとても安らかな 我が子の死に顔を、「もうあえなくなってしまうのか」とたまらず撮った死に顔の写真をおいてある と息子は成仏できないのでしょうか。
  
母の体のあちこちに不具合があるのは、長年連れ添った 夫の遺骨の一部をさみしくて手元に置いてあるからなのでしょうか。
  
  
 また母は長年自分の先祖と父の先祖の仏壇を家で供養してきました。毎日かかす事無く それぞれ別の部屋にある仏壇(同じ部屋に並べるものじゃないのだそうです)にお供えし、 お経をあげて来ました。
 
最近年をとり、一日都合四回もお供えしたり、お経を詠むのができ なくなったので、手を抜くよりはと住職に相談し、やむを得ずタブーを破って一つにまとめました。
 
そのときわざわざ住職に家に来てもらって、中身を移す儀式を行いましたが、そうまでしな ければならないのだろうかというのが正直な所です。
 
母にしてみればそれで不安も解消される のかも知れませんが。
 「こうしなければならない」というルールから少々はずれることはあっても朝夕一生懸命お つとめし、仏壇の中の人たちに語りかける母には何か良くないことが起き、家に仏壇なんか 無く、年に一二度田舎に帰って墓参りする人には何も起きないのでしょうか。
 
 僕には死んでいった人たちがそのようなことで「成仏できないじゃないか」と文句を言うとも 思えないのです。
それより死者に向かう気持ちの方が大切なように思うのです。
  
そうは思っても日頃、お葬式以外で仏教と接点が無い僕たちにとって些細なようで、意外に 頭を悩ませることがいろいろあります。
  
弔いごとにおいて、これはしてはならないと言うことや そんなこと気にしなくても良いというようなこと、お教えいただけると幸いです。

name=まこと


宗派によって、仏事の作法はそれぞれだと思います。
 
私が坊守をさせていただいている浄土真宗本願寺派にもいろいろな作法があります。
たとえばお仏壇のお荘厳など、当派ではお茶などを御供えすることはしませんし、
やはりなまぐさいものも御供えしません。他にも浄土真宗ではお線香は立てずに、
適当な長さに折って横に寝かせてたきますし、お焼香のときに何度のお香をつまんだり
いただいたりはしないで一回だけつまんで香炉にいれ合掌、称名して礼拝するというように
それぞれの宗派で作法が定められています。
 
> 弔いごとにおいて、これはしてはならないと言うことや
> そんなこと気にしなくても良いというようなこと、お教えいただけると幸いです。
 
「仏教Q&A」のコーナーでなく、ここ「みんなの広場」にご投稿をいただいたということは
まこっちゃんはgoshinが不作法であることをもうしっかりと見抜いておられるので、他のいろ
いろな方のご意見をお聞きしたいということだと思います(^o^?
是非皆さんのご投稿をいただけますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
 
おみとおしのとおりgoshinは全然知りません(^^ゞ)
それで、一応「他のHPで仏事の作法について書かれたところを探して下記にリンクを張ら
せていただきましたのでご参考になさって下さい。」と書こうとしたのですが時間がなかった
ので、おいおい調べて、キチンと仏教Q&Aでとりあげさせていただきます。
  
  
仏事の作法については、こんな私のところへさえも時々メールをいただきます。
  
つい先日は、外国人の恋人を亡くした方から、お墓にお参りすることが出来ないので、
部屋に写真と花と水を供えているが、「こういう時、供養するためには何 をしたらいいのか」
とのメールをいただきました。
 
それに対して、不作法goshinは真宗ではお茶や水は御供えしません、御仏飯を。。などと
お返事させていただくことは思いもよりませんでした。で、次のようにお返事させていただき
ました。
   
・・・
  
○○さんはもう、じゅうにぶんにご供養されてお られます。「彼にご供養を」というならば、
今、この絶望的な悲しみの 中で一生懸命その悲しみを引き受けておられる○○さんの
お気持ち こそがなによりのご供養です。それ以上のご供養はありません。
 
お墓やお仏壇の前で亡き人を拝んだり、お経をあげたりするのが、 ご供養ではありません。
あなたの心に今なお生き続けて、あなたに 力を下さっているに違いない彼の「おかげさま」
に出会わせていただくことこそが ご供養です、その他にご供養などありません。
  
本当は供養をしてくださっているのは亡きお方のほうなのです。
亡きお方のおかげさまでお経をお聞かせいただいてるのが私どもです。
亡きお方のおかげさまに私たちはお礼を申し上げ、さまざまなおかげさまを忘れどおしの私を
お教えいただくだけです。
  
私が心の重心とする親鸞聖人のみ教えでは「死者への供養」という ことなどは、生きている
者の僭越だと教えられます。亡 きお方より供養をしていただいているのがこの私なのだと
お示しくださるのがお念仏のおはたらきであり、亡き人を供養するための呪文ではありません。
 
ですから、お墓やお仏壇へお参りをしたり、お経をあげさせていただ くのも、亡き人の供養
のためではなく、亡き人こそが私を仏縁に合わ せて下さるのだと捉え、亡き人から大切なこ
とをお教えいただく場であ り、亡き人のおかげさまを喜ばせていただく場とします。
 
亡き人からご供養されていることすら忘れどおしで、亡き人 にご供養など出来る私ではないと
気付かせていただくのが仏教です。
  
同じ悲しみの方々と悲しみを共有することの出来ない○○さんの孤独と お辛さを思っています。
けれども、彼はお墓に眠っているのではありません。いつも○○さんと 一緒に生き続けて下さっ
てます。
  
これは唯の願望でも慰めでもありませ ん、確かな確かな事実です。事実というのはこういうことを
いうのだという ほどに確かな事実です。
  
彼の「おかげさま」はずっとずっと○○さんの中に生きています。それこ そが本当の彼です。
一番大切なことをこれからも教え続けてくださるはず です。
    
だから、これからもうんと泣いてうんと悲しめばいいんです。 悲しみを嫌うことはけっしてありません。
悲しみの中にはいつもどこでも必ずほんとの彼がいてくれます。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
今回はひとまず、
 
お仏壇は亡き人のためにあるのではなく、この私が仏様に出会わせていただく場としてあるものだと
いうことのみを書かせていただきました。亡き人を追慕することをご縁として、迷っているこの私をお
教えいただく場、その私に懸かられた亡き方の願いをお聞かせいただく場、仏様の願いをお聞か
せいただく場こそがお仏壇です。
 
それさえ、はずさなければ、お水を御供えしてはいけないのか、いいのか、
アイスクリームを供えたらバチがあたるのか、あたらないのか、そんな答えは必要ないような気がし
ます。
 
な〜んて、こんなことをいうと・・仏事の作法にはそれなりの意味があるのだから、×かな(^^ゞ
  
    
> 幼くして 逝った息子の祭壇に彼の好物だった”なまぐさもの”、たとえばアイスクリームを
> 供えてあげたら 家のものになにか悪い事が起きたりするのでしょうか。
  
ただし、これだけは言えます。
ああすると悪いことが起きる、こうするとたたりがある・・そういう「脅し」は宗教ではありません。
また、たたりを畏れる心は信仰心ではありません。
 
仏教は因縁果の道理を説くものであり、この道理にはずれたものが迷信です。迷信に惑わされ、
脅しに心揺れるのは、弱い私たちの常ですが、脅しに心穏やかでないその私こそを問われるのが
仏教だと思います。
 
けど、
 
> そうは思っても日頃、お葬式以外で仏教と接点が無い僕たちにとって些細なようで、
> 意外に 頭を悩ませることがいろいろあります。
 
と仰有るお気持ちは、そのとおりだと思います。
ですから、その一つひとつを仏教Q&Aでとりあげさせていただきたいと思います。
何卒、皆さんも宜しくご指導下さい。
 

 

ご投稿をありがとうございました。心より御礼申し上げます

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